

開志専門職大学
小野さんがお勤めだったオラクルは、IT関連では超・有名な大企業ですね。

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情報システムを学んでいる高校生には馴染みがあるかもしれませんが、文系の高校生にもわかるように会社を説明していただけますか?
小野孝太郎さん
オラクルは、1977年にラリー・エリソンという創業者によって設立されました。

小野孝太郎さん
オラクルの主力製品はデータベースです。

小野孝太郎さん
現在は売上約4兆円、日本も含め全世界に13万7千人の従業員がいるグローバル企業です。


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データベースとは何でしょう?
小野孝太郎
たとえばみなさんがスマートフォンを使ってショッピングをするとき、洋服や本など、たくさんの商品が表示されますよね。
簡単にいえば、さまざまなデータを保存しておく場所のことを「データベース」といいます。オラクルではリレーショナル・データベース(RDB)と呼ばれる、表形式で項目を関連付けて管理する優れたデータベースによってさまざまなビジネスに活用できる製品を開発しています。


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本社はどちらにあるのでしょう。
小野孝太郎
アメリカのカリフォルニア州で、シリコンバレーと呼ばれている地域です。ここはIT関連の企業がたくさん集まっています。

小野孝太郎
アップル、グーグル、フェイスブックもシリコンバレーにあります。


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おお! iPhoneを作っているアップルはシリコンバレーにあるんですね。アメリカで就職されたのですか?
小野孝太郎
いえ、オラクルの本社はアメリカですが、就職したのは日本オラクルです。まだ日本に上陸して間もないころで新卒3期目の入社でした。


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なぜ、日本オラクルに就職されたのでしょう。
小野孝太郎
初任給が31万円だったので(笑)と、いうのは冗談です。

小野孝太郎
はじめて電話をかけた時に対応してくださった人事の方がとても丁寧で好印象を持ちました。

小野孝太郎
また、ユニークな面白い取り組みにも魅力を感じました。


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面白いというのは、たとえばどういうことですか?
小野孝太郎
面接に合格して内定が決まったとき、会社のイベントに後輩を連れてくるように言われました。

小野孝太郎
なんと、いちばんたくさん後輩を連れてきた人には、シリコンバレーにある本社にご招待してくれる、というのです。

小野孝太郎
そこで、頑張って30人ぐらい後輩を集めたところ、私が一番になったんです。ご褒美として、アメリカの研修に行くことができました。


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すごい! オラクル本社のあるシリコンバレーの第一印象はいかがでしたか?
小野孝太郎
実物は強烈な印象でした。カリフォルニアの素晴らしい気候の中に立派なビルが建ち並び、まぶしかった。

小野孝太郎
ここに来れば、私が漠然と夢に描いていた、「満員電車に乗らない生活」と「毎週末ゴルフをする」という生活ができると思いました。



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実際に、アメリカの本社で働かれていたんですよね?
小野孝太郎
はい。入社した当時から「アメリカ本社に行きたい」「アメリカに行ける仕事をください」と上司や周りの人に言い続けていたら実際にそのような仕事をいただき入社3年目には願いが叶いました。

小野孝太郎
途中いつ行けるか分からなかった時には部長に、「私は何が何でもアメリカに行きたいので、会社を辞めて留学します」と言いました。そうしたら部長が、「あと一年待ってくれ」と言ってくれました。


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実際にアメリカで生活されて、習慣の違いや言葉の壁で困ったことはありませんでしたか?
小野孝太郎
来てすぐの頃は少しありました。日常生活で確実に使う基本的な英語でありながら、学校の英語や受験勉強では出てこなかった英語です。例えば、マクドナルドに初めて行った時は、店員さんに”For here, or to go?”と聞かれました。

小野孝太郎
「ここで食べていく?それともお持ち帰り?」

小野孝太郎
という問いなのですが、そんなことは学校でも習ったことがないから知りませんでした。それでも、ちょっと恥ずかしい思いをするだけで、死ぬわけではありません。


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仕事に支障はなかったのでしょうか。
小野孝太郎
最初は英語で苦労しましたが、相手も仕事なので、ゆっくり言い換えてくれたり、e-mailをうまく使って仕事を進めることができました。


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メールも問題なし、ですか?
小野孝太郎
メールに関していえば、日本と大きな違いがあります。アメリカでは日本のように「お疲れ様です」のような、相手を配慮した定型的な言葉をメールに入れません。

小野孝太郎
必要なことだけを端的に書く人が大半です。極端な話、”Yes”の一言だけのメールなどもあります。

小野孝太郎
あとは、分かりやすいメールを書く人の内容をお手本にして表現の真似をするようにしました。ただ、私は2015年に退職しているので、今は時代も変わってslackなどのコミュニケーションツールを使っているかもしれませんね。


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アメリカで仕事をする上で重要なことは何でしょう。
小野孝太郎
目に見える成果をあげることです。

小野孝太郎
そのためには、会社や所属部門の目標や方向性、そして上司が自分に求める役割をまず理解します。その理解を言語化し、上司と確認します。その上で、高い目標を自ら設定し、これも言語化し、上司と合意します。

小野孝太郎
あとは目標の達成に向けて全力を尽くすのです。実はこれはアメリカに限らずどこで生きていくにも重要なことです。


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慶應義塾大学の大学院まで卒業されていますね。子どものころから勉強をよくされていたのですか。
小野孝太郎
実はそうでもないのです。

小野孝太郎
高校2年まではバレーボールばかりやっていて、成績は360人中320番でした。その高校は浪人も含めて東京大学に10人、早稲田大学や慶應義塾大学に50人ほど合格していました。320番では到底合格しません。でも、あることをきっかけに猛勉強するようになったのです。


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好きな女の子ができた、とか(笑)
小野孝太郎
そうなんです(笑)。

小野孝太郎
高校1年生の時に一目惚れした女の子がいました。みんなが気をきかせてくれて、隣りの席にしてくれました。その日から、「何を聞かれても完璧に答えられるようになる」と決めて、数学の予習を始めました(笑)。そうしたら2学期の中間テストで、クラスで3番になったのです。

小野孝太郎
彼女は「すごい!」と褒めてくれました。

小野孝太郎
そして、次は「絶対に1番になって彼女にもっと褒めてもらう。そのためには百点を取る。」と誓い徹底的に勉強しました。結局、それから卒業するまで学校の数学のテストは百点を取り続けました。


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慶應義塾大学に進学を決めたことには理由がありますか。
小野孝太郎
彼女のお父さんが、慶應義塾大学を卒業されていたからです。


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とてもわかりやすいです。大学ではどんなことを学ばれましたか?
小野孝太郎
大学2年の時に中西正和教授(故人)のPascalというプログラミング言語の授業を受けて、コンピュータ・プログラミングの楽しさにのめり込みました。3年生ではアセンブラやC言語、そしてLispという人工知能向きの言語を学び、研究室では自然言語処理の研究をしました。



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仕事の話に戻るのですが、いくつか「転機」があったのではないかと思います。つまり、人生が変わる節目です。
小野孝太郎
ありました。最初は、アメリカに駐在員として勤めていたので、2年経過して帰国の時期になりました。

小野孝太郎
日本オラクルに戻るか、アメリカオラクルに転籍するか選ぶことができました。当時の私は縁あっていただいた仕事で世界トップクラスのエンジニアになりたいと考えていたので、そのためには本社に残るのが自然な選択でした。


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現地採用でオラクルの社員になると、どう違うのですか?
小野孝太郎
駐在手当がなくなったので給料が、ガクッと落ちました。

小野孝太郎
しかし、その年にTPC-Cと呼ばれるデータベースの性能を競うベンチマークで世界1位の結果を出すことができたので、ストックオプションをもらえました。それが後には20万ドル、日本円に換算して約2,400万円の価値になったんです。


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うわっ。びっくりしました。ストックオプションとは何ですか?
小野孝太郎
現金のボーナスの代わりに、会社の株の決められた数をその時の価格で購入する権利をもらえることです。その後に株価が上がれば、権利を行使することで、差額の利益を得ることができます。

小野孝太郎
ストックオプションや株を持っている人は、自分の仕事を通じていかにして会社の価値を上げるか?という方向に思考が働くことになります。


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現地社員になってから、その後、さらに転機はありましたか。
小野孝太郎
大きな転機がありました。1999年に、オラクルの代表製品であるReal Application Clustersの開発本部のマネージャーから声をかけていただき、「人を増やすから来ないか?」と誘われたんです。

小野孝太郎
しかし正直なところ、怖かったですね。


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代表製品を手がける部門のマネージャーから、直接声をかけられることは大きなチャンスですよね。
小野孝太郎
確かに大きなチャンスではあるのですが、当時その部門には日本人が一人もいませんでした。さらにスタンフォード大学やマサチューセッツ工科大学などの超一流大学でコンピュータを専攻したような優秀な社員ばかりでした。

小野孝太郎
アメリカの企業は結果を出すことを重視するので、結果を出せない社員は解雇されてしまいます。実際に当時は、たくさんの人が解雇されていました。


開志専門職大学
やりがいはあるけれど、リスクも大きい。解雇されてしまうかもしれない。

開志専門職大学
そんな不安がありながら一歩踏み出せたのは、どうしてですか?
小野孝太郎
日本から一緒に渡米した妻に相談したところ、ひとこと「行けば?」と。


開志専門職大学
やはりこのときも女性のおかげで一歩踏み出せたんですね(笑)
小野孝太郎
そうかもしれません(笑)不安でしたが、その開発部門に移り、他の人がしないことや自分だからできることを作りながら5年ほどコツコツと取り組みました。そうしたらそれなりのポジションにつくことができました。

小野孝太郎
日本の顧客と直接話し、課題を理解できるのは私の大きな強みです。また、日本オラクルと交渉してエンジニアを本社に送ってもらい研修するプログラムも立ち上げました。

小野孝太郎
私が退職するまでに10人が長期研修で出張に来て、そのうちの3人は後に私が所属する部門に転籍しました。日本の若い人のために本社開発部門で働く道を作ることができたのは私のオラクル時代の仕事の中でも最も誇りに思うことです。



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仕事以外ではどのようなことをされていましたか?
小野孝太郎
もともとゴルフをしたくてアメリカ行きを希望していたこともあり、ゴルフは多い年で年間80ラウンド、ベストスコアは70。ハンディキャップは3になりました。


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ゴルフは今も続けているのですか?
小野孝太郎
実はもう続けていません。37歳ぐらいになって飛距離が伸びなくなり、そこで始めたのがエアロビクスです。

小野孝太郎
オラクルは社内に立派なスポーツジムがあります。そこでエアロビクスのレッスンに顔を出してみたところ楽しくて、はまってしまって。エアロビクスを始めてから、走るようになりました。

小野孝太郎
2007年の11月にはハーフマラソン、翌年3月にはカリフォルニア州ビッグサーで開催されるフルマラソンに出場しました。


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一度はまると、のめり込むタイプなんですね。
小野孝太郎
エアロビクスのインストラクターの一人が、トライアスロンのアイアンマン(3.8km泳ぎ、180km自転車に乗り、最後に42.195km走る)をやっている人でした。彼女がレッスン中に、アイアンマンについて話してくれました。


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またしても女性が大きなきっかけを与えたのですね(笑)
小野孝太郎
アイアンマンも2009年7月に完走しました。


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それほど身体を鍛え上げられたのに、その後、オラクルを退職されています。何かあったのですか?
小野孝太郎
スポーツに没頭していた時期に、ある人との出会いがありました。その人に衝撃的な言葉を言われたんです。「あなたはもっと与えてください」と。


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深みのある言葉です。いったい、どういうことでしょう。
小野孝太郎
自分の目標を「自分が何をしたいか?」ではなく、「人に何をしてあげられるか?」に変えるということです。

小野孝太郎
それまでの私の目標は、「テストで100点をとる」「慶應義塾大学に入る」「アメリカで働く」「ゴルフを毎週末する」「満員電車に乗らない生活をする」「アイアンマンを完走する」など、自分の欲望を満たすことばかりでした。

小野孝太郎
私はそれまでも後輩や周りの人などに対して親切にしてきたと胸を張って言うことができる人生を歩んできました。

小野孝太郎
でも、自分の目標は常に「自分が何をしたいか?」にフォーカスがありました。そうではなくて、私という人間がこの世界や人々のために何ができるか?にフォーカスを移すということです。


開志専門職大学
「人々のために自分に何ができるか」の答えはすぐに出ましたか?
小野孝太郎
その答えを出すのは至難の技でした。まず、3年でその答えを出そうと決めて、先にフェイスブックで「2015年4月にオラクルを退職する」と宣言しました。宣言した以上後には引けません。


開志専門職大学
どうやって答えを出したのでしょう。
小野孝太郎
写経をしたり、また走りながら考え続けました。そして、人間は3時間ぐらい走り続けると、無の心境になって、魂の声が聴こえることがあります。


開志専門職大学
えっ! なんでしょうか、それは。
小野孝太郎
なんとなくスピリチュアルめいていますよね。でも、自分にも魂の声が聴こえたんです。

小野孝太郎
でも、自分にも魂の声が聴こえたんです。

小野孝太郎
「底辺10%にいる子どもたちが勉強して、リーダーになれるような学校を作りなさい」と。「底辺10%にいる子どもたちが勉強して、リーダーになれるような学校を作りなさい」と。


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それで教育の道に進まれたんですね。
小野孝太郎
そうなんです。2013年からサンフランシスコの補習校で、保護者会の会長に就任しました。その後、小学校5年の担当も務めるようになりました。同時に大前研一さんの社会人向け通信制大学のBBT大学も受講し始めました。

小野孝太郎
仕事と週末の小学校の担任、通信制大学の受講と睡眠不足でしたが、充実していました。


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そして、オラクルを退職されたのですね。大企業を去ることに迷いはありませんでしたか?
小野孝太郎
覚悟は決まっていました。そして、退職後はまずロサンゼルスのソーテル日本学院で教えました。さらに家庭教師をして子どもたちと向き合う経験を積み重ねました。


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日本でも教師の経験を積まれていますね。
小野孝太郎
2016年の春からです。福岡県田川郡の小学校でした。NPO法人Tech for Japanを通じて、教師を勤めさせていただきました。

小野孝太郎
なかなか思うようにいかず、苦しい思いも正直しましたが、2年目の後半くらいから自分らしく子どもたちと向き合うことができるようになりました。

小野孝太郎
2年目は小学2年生の担任でした。ある保護者の方に「小野先生だからできることをしてください。」と言ってもらい、シリコンバレーの起業家に学校に来てもらって子どもたちと保護者を対象に特別授業をしてもらったりしました。

小野孝太郎
子どもたちに繰り返し伝えていたことは、3つです。

小野孝太郎
まず一つ目は、人と比較せずに今の自分を受け入れること。みんな今のままで素晴らしいのです。

小野孝太郎
二つ目はその上で、「なりたい自分」を考え、そこに向かって「できるまでやればできる」の精神でやり続けることです。

小野孝太郎
そして、三つ目として「なりたい自分」を考える力をつけるために様々な勉強をし、学び続けることが大切であるということです。

小野孝太郎
これは小学二年生に限った話ではなく、高校生や大学生はもちろん、私も含めた全ての人に共通する大切なことだと考えています。



開志専門職大学
日本で教員生活の後、再びアメリカに渡ってEDTECH LABORATORYという会社を作られています。これはどのような会社でしょうか。
小野孝太郎
大きく三つの事業をしていこうと考えています。

小野孝太郎
一つ目はテクノロジー事業です。教師の時間を生み出したり、子どもたちの学びの質を高めるようなアプリを開発します。

小野孝太郎
二つ目はメディア事業です。教師の生産性や子どもたちの学びの質を弊社のアプリや既存のテクノロジーを使っていかに高めるか、情報を収集・発信できるようなメディアを構築していきます。

小野孝太郎
三つ目は教育事業です。ここでは最終的な目標は学校づくりですが、今回頂いたご縁のように講師をしたり講演をしたりします。


開志専門職大学
最後に、小野さんが特別講師として、開志専門職大学で学生たちに教えたいことについてお聞かせください。
小野孝太郎
社会の変化のスピードは加速する一方です。

小野孝太郎
オラクルで働いた経験や起業して得た経験をもとにテクノロジーの最新動向について教えながらも、どのような社会になっても普遍的に大切にすべきマインドセットの部分までお伝えできるといいですね。

小野孝太郎
一度しかないこの人生をいかにして最高に素晴らしいものにするのか。そんなことを学生の皆さんとともにディスカッションできれば楽しそうだ、と考えています。


開志専門職大学
本当に楽しそうですね。ありがとうございました!
特別講師 小野孝太郎氏
1969年神奈川県横浜市生まれ。1994年慶應義塾大学大学院計算機科学専攻を修了後に日本オラクルに入社。1996年から米国シリコンバレーの本社に駐在、98年に現地採用として同社に残り、1999年データベース開発部門に日本人として初めて加わり、オラクルの主力製品Real Application Clustersの開発に従事。2015年にオラクルを退職し、NPO法人Teach For Japanによる2年間のプログラムで、福岡県田川郡で小学校の教師を務めた。2018年に公教育にテクノロジーでイノベーションを起こすEDTECH LABORATORY起業。創立者兼CEO。米カリフォルニア州フォスターシティ在住
インタビュー:福田恵子
撮影:鈴木香織
動画:ジーン渋谷

