また、1969年10月29日にキャンパス内で行われたARPANET上でのデータ送信実験は、インターネットが誕生した瞬間とされ、UCLAは「インターネット誕生の地」とされている。UCLAは名門公立大学の集まりであるパブリック・アイビーの一校である。
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著名な卒業生
デレック・ボック (ハーバード大学元学長/UCLA Lab School)
ヴィントン・サーフ (インターネットの父)
ジェームズ・ディーン (俳優)
フランシス・フォード・コッポラ (映画監督)
佐治信忠 (実業家/元サントリー代表取締役社長)
エリノア・オストロム 政治学者/女性初のノーベル経済学賞受賞
ルイーズ・リチャードソン 元オックスフォード大学総長
トーマス・ユージーン・エバーハート 元カリフォルニア工科大学元学長
岩田松雄 スターバックスコーヒージャパン元CEO
ジョナサン・ゴールド ピューリッツァー賞受賞者
スティーフェン・ボーレンバック ヒルトン・ホテル・グループ元CEO


開志専門職大学
平野先生はUCLAの歴史学の准教授ということですが、具体的にはどのようなお仕事をされているのでしょうか?
平野克弥
私の仕事は大学生に対しては日本史と近代世界史、大学院生には歴史理論、歴史哲学を教えることです。

平野克弥
あとは、英語と日本語で本と論文を書き、北米、アジア、ヨーロッパなどの大学で講演をし、また学会にも出席します。


開志専門職大学
日本史、または近代世界史の中でもご専門は何ですか?
平野克弥
日本の幕末期から明治にかけての政治、さらには近代に移って日本帝国の成り立ちから北海道の植民地主義までです。1920年くらいまでの日本の歴史ですね。

平野克弥
世界史は20世紀初頭から戦後にかけての脱植民地運動とその思想などを研究しています。


開志専門職大学
アメリカ人、または世界中からUCLAに集まってきている学生たちに日本史を教えることの醍醐味、やりがいとは?
平野克弥
日本(の大学)で日本史を教える場合は、小中高である程度、予備知識が付いていることもあって、教えやすさがある一方、物の見方が狭くなるんですね。新しいとらえ方ができない、ということです。

平野克弥
その一方で、アメリカの場合は日本史を勉強することはほとんどありません。高校で世界史の一部としてほんのちょっと習う程度です。ですから、ペリー来航あたりくらいしか知りません。あとは太平洋戦争ですね。

平野克弥
つまり、あまり習ってないために、アメリカの学生は日本史に対して固定した物の見方をしません。オープンなんですね。


開志専門職大学
なるほど。先入観なく、新しい情報として受け入れてもらえるということですね。
平野克弥
そして、私は将軍の名前や年表を記憶させるといったことは一切しません。その代わりに短い論文を書かせます。


開志専門職大学
記憶するための歴史の勉強ではなく、考えさせるための勉強ということでしょうか。
平野克弥
そうです。そして世界の大きな流れの中で日本を位置付けながら問題意識を持ってもらいます。


開志専門職大学
次に、先生が教鞭をとっているUCLAという大学について教えてください。
平野克弥
カリフォルニア大学ロサンゼルス校と呼ばれますが、ここはカリフォルニア大学のシステムの中でバークレー校に次いで2番目に古い大学で、学生数は最も多いです。

平野克弥
最初、このロサンゼルス校はバークレー校の分校として1919年に開かれました。しかし、ここで教えている先生たちが運動を起こして、1927年に独立した大学になりました。2019年で100周年を迎えます。

平野克弥
非常に充実した総合大学で、いろんな研究が進められています。先生も学生さんも世界中から集まってきています。



開志専門職大学
日本人にとっては、アメリカの公立大学では真っ先に思い浮かぶ大学の一つです。さて、平野先生はここでいつから教えているのですか?
平野克弥
2013年からです。その前はニューヨーク州のコーネル大学で教えていました。さらにその前は中西部のシカゴ大学にいました。


開志専門職大学
UCLAに移ることになったきっかけは?
平野克弥
ここで日本史の先生を探しているという情報が入ってきました。それでUCLAで教えていた友人から「カツ(英語での呼び名)、応募してみない?」と言われて、西海岸も面白いかもしれないなと思って応募したというわけです。


開志専門職大学
西海岸は、東海岸とはやはり違いますか?
平野克弥
そうですね。実際、西海岸の方がアジアに近いですし、アジアに関する研究もこちらの方が盛んで、学問的なサポートシステムもしっかりしていると感じます。自分にとっては、非常に良い環境です。


開志専門職大学
もともと「歴史を教える」「歴史を研究する」仕事に就こうと思ったのはなぜですか?
平野克弥
実は最初はジャーナリスト志望でした。日本の大学では民主主義について学んでいて、将来的にジャーナリストとして独り立ちしたいと考えていました。


開志専門職大学
何が起こったんですか?
平野克弥
奨学金が出るということで、大学卒業後、イギリスに2年間留学することになったんですね。イギリスの帝国主義、植民地主義の歴史、また文化研究を学び、修士号を取得しました。

平野克弥
日本に帰ってジャーナリストになろうと考えていたのですが、イギリス時代にアメリカのシカゴ大学の先生が書いた歴史書に出会いました。


開志専門職大学
その本が運命を変えたのでしょうか?
平野克弥
ハワイ出身の日系二世のナジタ(奈地田哲夫)先生が書いた、江戸時代の商人の徳についての本だったのですが、それまでになかったような歴史書だという衝撃を受けました。


開志専門職大学
何が違っていたのですか?
平野克弥
それまでの歴史の書き方は、年代を追って何が起こったかを細かく説明するタイプのものが多かったのです。しかし、その本は、例えば近代とは何かといった大きな問題意識に焦点を当て、庶民の思想や日常的な実践の意義を探りながら、近世から近代に移る日本社会の姿を描き出していました。

平野克弥
そこで、僕は執筆者である先生に手紙を書きました。1993年のことでしたから、まだインターネットもなかった時代のことです。手紙には本を読んで感じたこと、自分が勉強をしてきたことについて書きました。

平野克弥
そうしたら「じゃあ会いにおいでよ」と言っていただいたのです。シカゴまで会いに行ったところ、「奨学金をあげるからシカゴ大学で博士課程を学びなさい」と言われました。


開志専門職大学
それはすごいですね! その話をすぐに受けたのですか?
平野克弥
いいえ、実は「ちょっと時間をください」と返事をして、日本に一旦帰って、ゴルフ練習場で深夜にボール拾いをしたり、英語を教えたりして1年を過ごしました。

平野克弥
そうして将来自分は何をしたいのだろうと考えた結果、シカゴ大学の博士課程に進むことにしたのです。



開志専門職大学
ジャーナリストから進路を転換したのですね。
平野克弥
はい、そして2002年から歴史を教え始めましたから、今の仕事について17年になります。


開志専門職大学
アメリカで歴史、主に日本史を教えるという今の仕事を通じて、先生が一番強く感じた手応えは何ですか?
平野克弥
具体的なエピソードというよりも、この国の人々の多様な生き方や価値観を、学生との出会いで実感したことですね。それは人種的、民族的あるいは性的なステレオタイプに収まらない多様性という意味です。

平野克弥
さらに、さまざまな国から移民してきていますから、外見からは計り知れない人生経験をみんな持っているということです。


開志専門職大学
いろいろな人が集まっているということですね。
平野克弥
貧しい家庭の出身だったり、高校時代でいろいろあったりして、一度は学校をやめたけれど、また大学で学び直しているという学生に出会うことが少なくありません。ここ、アメリカの社会はやり直しがきくんです。

平野克弥
志さえあればやり直せます。また、ジェンダー(性別)の問題でもそうです。LGBTの運動に見られるように、世の中は男と女しかいないということではなく、今や多様性の時代です。

平野克弥
ですから教師としては、いわゆる「常識」で歴史を教えるべきではないと思います。もっと学生と互いにやり取りしながら、相手を理解し、時代の変化に注意を払いながら教えたいです。実際、私は学生に教えられることが多いです。


開志専門職大学
教え方も時代に合わせて変わるものであり、学生との交流もまた重要な要因なのですね。平野先生の柔軟な姿勢にとても感銘を受けます。

開志専門職大学
ところで平野先生が、そもそも最初に海外を意識したのはいつでしたか?
平野克弥
少6の時に国連で働きたいと思っていたのです。本で読んだのか、とにかく国連で働けば世界平和に貢献できると思い込んでいました。



開志専門職大学
大学の先生になられたくらいですから、子どもの頃から勉強は得意だったのでしょうか。
平野克弥
それがやんちゃで、勉強が嫌いでした(笑)。小学校の時は、宿題を全くやりませんでしたね。先生に怒られて、よく両親が先生から電話をもらっていました。


開志専門職大学
では、勉強は中学から?
平野克弥
いいえ、中学ではブラスバンド部に熱中して、部長を務めていました。


開志専門職大学
高校では?
平野克弥
ブラスバンド部が全国でも有名な高校でしたが、部活をせずに、高校ではとにかく悩んでいました。


開志専門職大学
何について?
平野克弥
生き方についてです。周りは受験勉強ばかりやっていました。受験していい大学に入って、その後会社に勤めていい給料をもらう人生…それだけでいいのかと。受験勉強に時間を捧げて、それだけの価値があるのだろうか、と悩んでしまったのです。


開志専門職大学
どうやって解決したのでしょうか?
平野克弥
高校1年の時は、勉強を全くしてなかったので、あやうく進級できないところでしたが、同じことで悩んでいる友達やいい先生との出会いで救われました。

平野克弥
先生には「悩むことは大切だよ。その気持ちを大事にしながらやっていこう」と言われました。もしそのときに「なんでそんなことで悩んでいるんだ、勉強しろ」と言われたら、自分を見失っていたでしょうね。

平野克弥
同じ悩みを持つ仲間や理解を示してくれた先生と週に1回、喫茶店で集まっていろんなことについて意見を交わしました。社会批評をしたり、彼らと同人誌を作ったり。


開志専門職大学
その気持ちがやがてジャーナリスト志望に発展するのですね。ところで、英語はどうやって習得したのですか?
平野克弥
英語だけは好きだったので、高校生の時から英字新聞を読んだり、英語のテープを聞いたりしていました。

平野克弥
そして、大学に入って、最初の夏休みにイギリスのオックスフォードに語学留学をしました。そのときに自分がいかに英語ができないかということを実感しました。

平野克弥
東京のような都会出身でもなく、帰国子女でもなんでもないですから、周囲に英語の環境がなかったんです。イギリス人が話す英語を聞くのが大変でした。話すのが早いですから。


開志専門職大学
日本に戻ってまた努力されたのでしょうか?
平野克弥
大学が京都になったので、留学生を見付けては私が日本語を教える代わりに英語を教えてもらったりして、実践的な英語を話せるようになるようにと努力しました。



開志専門職大学
その後、またイギリスに留学されましたが、海外生活で初めてぶつかった壁とは?
平野克弥
日本の社会だと、普通、人を疑うということをしませんよね。少なくとも、僕の育った世代はそうでした。イギリスでアパートに住んでいたのですが、人に嘘をつかれたり物を盗られたりということが起きるという事態に遭遇しました。


開志専門職大学
どういうことですか?
平野克弥
雨降りの日に傘を差そうとしたら、アパートに自分の傘がなかったんです。アパートに住んでいる他の人に「僕の傘、見なかった?」と聞きましたが「知らない」と答えました。ところが自分の傘がある人の部屋に置いてあったんです。

平野克弥
また、電気代を払わずに、夜、アパートを引き払ってしまった友人もいました。

平野克弥
それは小さいことではありますが、日本の外に出ると、現実はシビアだということです。日本の当たり前は通用しません。


開志専門職大学
無防備ではいられない、ということですね。海外生活をするということは、それまでの固定観念が崩されるということでしょうか。
平野克弥
実は、それがまた喜びでもあるのです。人は慣れない環境に身を置くと、自分を守りたくなりますね。しかし、それだと自分の殻に閉じこもってしまうことになります。

平野克弥
あえて、新しい自分を発見するために、それまでの自分の価値観に固執することなく、いろいろな人の異なる価値観に耳を傾けることが必要です。


開志専門職大学
なるほど、先ほどの多様性の話に通じますね。
平野克弥
海外でずっと生活してきた中で多様な人々との出会いを通じて、自分の生き方が豊かになったと感じています。



開志専門職大学
では、シカゴ大学の博士課程を修了してから現在までずっとアメリカにいらっしゃるわけですが、一度も日本に帰国しようとは思わなかったのですか?
平野克弥
博士課程を修了した後、一度日本に帰ろうとはしたんです。しかし、先ほどの恩師である先生に「ここに留まりなさい」と言われました。出会いに恵まれていたんですね。


開志専門職大学
その日系人の先生との出会いが大きかったのですね?
平野克弥
僕には2人の恩師がいるんです。日系人のナジタ先生はハワイのサトウキビ農家に生まれて、非常に苦労した方です。あまり知られていないのですが、真珠湾攻撃の後、ハワイの日系人たちも収容所に送られました。

平野克弥
苦労された後、その先生はハーバードの大学院に進みました。しかし、白人の男性社会だったハーバードで差別された先生は、エリートから見た歴史の学問から、庶民や民衆に根差した問題意識を持った新しい歴史学を提案され、それまでのハーバードのやり方に反旗を翻したのです。


開志専門職大学
おお、歴史学の革命家なのですね。
平野克弥
もう1人の恩師であるハルトゥーニアン先生はアルメニア移民の子どもでした。トルコがアルメニアで大量虐殺を起こした後、アルメニア人がアメリカに逃げてきました。

平野克弥
そういう背景を持つ先生の両親は、アメリカの教育を受けていなかったので、自動車産業の工場労働者として職場を転々としたそうです。


開志専門職大学
日系移民の二世とアルメニア移民の二世がアメリカで新しい歴史学を起こしたということですね。何年に何が起こったという記憶する歴史ではなく、問題意識に根差した学問というアプローチを平野先生自身が取られている理由がよく分かりました。

開志専門職大学
歴史学者の平野先生が目指すゴールとは?
平野克弥
正直分からないですね。計画的に物事に取り組むタイプではないんです。ただ、新しい世界史を書かなくてはいけないとは思っています。

平野克弥
これまでは(世界史は)ヨーロッパやアメリカの見方が中心でした。もっと抑圧されたり、忘れ去られたりした人々の視点を取り入れた世界史を書くこと、教えることができればといつも考えています。


開志専門職大学
さて、今の高校生に大学の4年間でやるべきことをアドバイスするとしたら、何と言いますか?
平野克弥
できるだけ多様な価値観に接すること、そして、自分の価値観を相手に押し付けるのではなく、いろいろな人の話に耳を傾けることが大事です。

平野克弥
さらに自分の意見も相手に伝えられるような力を身に付けてほしいですね。人との対話、やり取りは、自分自身を変えるチャンスになります。


開志専門職大学
開志専門職大学ではどのような特別講義をしていただけますか?
平野克弥
自分の価値観に固執することなく、日本の外に出てみて、また出なくても多様で複雑な世界を実感してほしいし、いろいろな人に出会って社会というものがどのようにつながっているのか、構成されているのかを感じ、考えてほしいという話をしたいです。

平野克弥
さらに、僕自身、学生さんたちが何を考えているかを聞きたいですね。


開志専門職大学
まさに先生の歴史に対するアプローチと同じですね。楽しみです。どうぞよろしくお願いします。
特別講師 平野克弥氏
カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)歴史学部准教授
1967年茨城県出身。同志社大学法学部政治学科卒業。アメリカのシカゴ大学で博士号取得。ディポール大学歴史学部、コーネル大学歴史学部を経て、2013年よりカリフォルニア大学ロサンゼルス校歴史学部准教授。専攻は日本近世、近代の文化史、思想史、社会理論、歴史理論。UCLAで優れた業績を残した教授が大学全体から3、4名が選ばれるDistinguished Teaching Awardを2019年に受賞。
インタビュー:福田恵子
撮影・動画:安部陽二

