蕗谷虹児賞受賞者マスタークラス・伊藤秀次氏(アニメーター) 第2回 | 【公式】開志専門職大学|ビジネス・起業・IoT・データサイエンス・アニメ・マンガのプロになる。

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蕗谷虹児賞受賞者マスタークラス・伊藤秀次氏(アニメーター) 第2回

【上京、そしてマッドハウスへ】

(第1回 【アニメ業界へ】はこちら

 

-- スタジオを辞められた後は、東京へ出られたのですか。

 

伊藤 はい。しばらく泊めてくれないかと西尾鉄也を頼りました。名古屋の作画スタジオからは、スタジオジュニオを紹介していただいたので、面接へ行きました。

 

-- スタジオジュニオでは、どのような作品に関わられたんですか。

 

伊藤 いや、ポートフォリオを渡したんですが、それを返してもらわないと他の会社を回れないので、返してくれという電話をしたところ、スタジオジュニオの社長だった香西隆男さんから、「会いたいから来てくれないか」と言われて会いに行くと、「君はうちへ来ないほうがいい。僕は絵描きの先輩として分かるんだけど、うちへ来ても『アンパンマン』と『ドラゴンボール』しかないから、君はAICさんとかに行ったほうがいいんじゃないの?」と言われたんです。後で他の人には「体よく断られた」と言われたんですが、私は香西さんから直接言葉を聞いていたので、本心で言ってくれたんだなと感じて、いまだに先輩としてアドバイスをしてくださったと信じています。

 

-- すると『アンパンマン』は、名古屋時代のお仕事でしょうか。

 

伊藤 はい、スタジオジュニオとは関係がありません。

 

-- その後にマッドハウスへ行かれることになる。

 

伊藤 はい。マッドハウスに電話をして、「今、どこにいるの?」と聞かれたので、「下の公衆電話からかけています」、「じゃあ、上がってきて」、「いいんですか」、「いいです」というやりとりの後、実際に上がっていくと「お願いします」ということになりました。そのまま川尻善昭さんの所まで通され、ポートフォリオをぺらぺらと見られて、消極的な感じで「まあ、いいんじゃない。でも、今は机が空いていない。それでもいいなら来いよ」と言われたので、「分かりました」と応諾しました。

 

-- 電話番号をご存じだったのは、アニメ雑誌か何かに書いてあったんでしょうか。

 

伊藤 電話番号はアニメ雑誌に出ていましたね。ガイナックスからは、ポートフォリオを送ってくれないと見ないと言われたので、送るのをやめました。返してくれるかどうか分からないから、無理だなと判断したわけです。

 

-- マッドハウス時代に影響や指導を受けた方はいますか。

 

伊藤 マッドハウスは他で功績を挙げた皆さんが続々と集まってくるような現場でしたから、一人一人を言い出すと切りがないほどです。その中で当時、私と年が近くて輝いていた方は、小池健さんですね。現在、小池さんは『LUPIN THE ⅢRD』の監督をされていますが、本当にエースという感じでした。

 

-- マッドハウスで『YAWARA!』に携わられて、その後、『ロードス島戦記』や『絶愛-1989-』、『獣兵衛忍風帖』等々、かなりハイクオリティーな作品で動画や動画検査をされています。その頃についての思い出はいかがですか。

 

伊藤 それらの作品は全て同時期に回っていて、私が所属していた動画部は、とにかく来るものを対応していました。社内指定と呼ばれるんですが、細かい作業や大変なカットは大体が社内に来るので、それらを必死にこなしている時代です。

 

-- 動画マンだと、動画を月産で何枚描けば一人前といった話があるかと思います。そういうことは言われましたか。

 

伊藤 さすがに1000枚描けとは言われませんでした。ただ、600枚は目指せと言われていて、400枚から500枚をうろうろしていたと記憶してます。『YAWARA!』のほうが枚数を描けるので、『ロードス島戦記』の仕事は逃げ回っていました。一方で、『ロードス島戦記』が大好きで、棚にそのカットを山ほどためている同期もいて、「すごいな、本当に好きなんだな」と思っていた記憶があります。

 

-- 動画検査のお仕事はいかがでしたか。

 

伊藤 当時、マッドハウスは、DR MOVIEという韓国の会社と提携をし始めた時期だったので、若い人はそこで動画チェックをして、全て持って帰ってくるというシステムを一生懸命に確立しようとしていました。その中で次々と仕事が来ていたので、あまり細かいことは覚えていないんです。

 

-- 日本に戻られてきた後に、スタジオぴえろの『幽☆遊☆白書』に参加されていますが、そこからマッドハウス以外のお仕事も始められたということでしょうか。

 

伊藤 はい。マッドハウスでは、そういうシステムの中で働いていたので、このままだといい年齢になってしまう、このまま続けるのは無理かもしれないと思って、辞めると言いました。ただ、もともとマッドハウスでも、社員だったわけではないんです。当時は何となく、「まあ、いるんだろう」といった感じで、法的な縛り等はありませんでした。東京へ来てから、そこでしか仕事をしていないので、外とのつながりがないわけです。そうなると、そこへ所属しているようなイメージになってしまうのですが、その状態をやめようという話です。

 

-- ちなみにその頃までに、マッドハウス内で決まった席は与えられたんでしょうか。

 

伊藤 最初の頃は、川尻善昭さんが「今、席が足りないんだけど」とおっしゃったように、完全に余剰人員でした。席がないので一度、自宅に持ち帰って仕事をしたことがあったんですが、「それは君のものじゃないから持って帰っちゃ駄目だ」と言われました。枚数も上げなければいけない中で、どうすればよいのかという状態になったので、ここは空いているなという席があったら、周りに確認を取って、そこに座って作業をするようになりました。ただ、しっかりと仕事をしていれば何も言われませんでしたね。そうしたらある日、制作さんが来て、その席は誰々さんという原画担当が座ることになったから、こちらへ移ってくれと言われて、スタジオの中で流浪していました。

 

-- 移ってくれと言われたということは、裏を返せば席を持っているのが自明のことになっていたということですね。

 

伊藤 それなりの枚数をこなしていたからじゃないかと思います。少しは役に立っていたのかもしれません。

 

(第3回 【フリーとしての活躍と業界のデジタル化】に続く)