【5,デジタル制作への移行】
(第1回 「日本アニメーションからテレコムへ」はこちら)
―― 『NEMO/ニモ』を通して得られた技術や経験で、後々生かされたものは、例えば何がありますか。
竹内 フィルム時代の話しで、今はデジタルになっていて、ツールがガラリと変わってしまったから、何が生かされたかと言うのは難しいけれども、当時としては色々な新しいことが分かった。プリレコーディングでやるので、編集機も、音と映像を合わせて見られなければならないという要求が出た。それまで日本では、アフレコが主流だから、完成のときにしか必要なかったけれど、ポジフイルムと音のテープを合わせてチェックする必要が出たから、編集機をスタインベックやケムマシーン(KEM)などを使うようになった。それからデジタル。随分後になるが、コンピュータだよね。仕上げのところで入れている。
―― デジタル・ペイントということですか。
竹内 デジタル・ペイントから撮影まで。1994年ですね。80年代に何回かアメリカに行っているときに、ハンナ・バーベラがコンピュータを入れたという話があって、見せてもらいに行った。82年に行ったときはストをやっていて、その後も何回か行ってるんだけど。だからもう少し後、80年代後半か90年になってからかもしれない。その頃にハンナ・バーベラが大きなコンピュータを入れたという話があった。確かにどでかいコンピュータが広い部屋を占領していた。でも出来ることは、大したことなかったけど。その辺りからコンピュータで色をつけたり、撮影をしたりする話がポツポツ出てきた。
前にアニメーションのデジタル化の歴史を見たけれども、そこにすっぽりと抜けている情報がある。マーベルの『スパイダーマン』の65本のテレビシリーズを、1994年7月から作り始めているけど、これは全部デジタルで色をつけて、最終的にフイルムを使わずにいこうということでデジタル撮影でやった。日本でも初めて、アメリカでもテレビシリーズでは初めてのはず。
―― RETAS!PROを使用して、制作されている。東映動画だと、『ゲゲゲの鬼太郎』のPR映画を1996年に一つ、デジタルでやっています。だから年代的には、『スパイダーマン』の2年後ですね。
竹内 そうだと思う。その頃だと、大きいコンピュータは、とてもではないけれども高くて買えない。それで何か汎用のものはないかと探したときに、DOS/VのOSで動く、メトロライト社のメトロセルというシステムがアメリカにあった。僕は2回ぐらいメトロライト社に見に行った。当時はキャノンがその日本総代理店のようになっていて、強烈に勧められたけれど、背景との合成がうまくいかなくて、キャラクターの周りに白い線、ギザギザが出てしまう。丁度同じ時期に、CELSYS社の今のRETASシステムの紹介があって。こちらも同様にアンチエイリアシングがうまく行ってなかったんだけれども、「なんとかならないか」と言ったら、日本なので話しが早く、なんとかできそうな感じがあった。それにMACだったからブラウザが、素人にも分かりやすい。OSがDOS/Vではなかった。これだったら、今の仕上げのスタッフにも使えるということで、RETASで作ると決めて、『スパイダーマン』の契約にもそのことを盛り込んでしまった。だから、韓国で動画までやったものを日本に持ってきて、仕上げをやって、後半は韓国で塗りもやったのかな。そのほかに撮影の高橋プロに頼んで、そちらでも塗りをやってくれと。こちらは、高橋プロに塗ることを教える。高橋プロは、撮影をこちらに教えてくれというバーターにして、デジタル仕上げ・デジタル撮影の仲間を増やした。これが、本当に使った初めてだと思う。無茶苦茶だけど、やり切った。よくアニメーション史では、『ビット・ザ・キューピッド』となってるけど、あれは実際には、ほとんどうまくいかなかった。
―― 『スパイダーマン』でデジタル・ペイントをやっていくときに、高橋プロにもデジタル仕上げをお願いしたということですが、コンピュータの設備はどうしたんでしょうか。
竹内 高橋さんには高橋さんで買ってもらった。宏固さんは、怖いんだけど、研究熱心でお金に潔ぎよい人で、それまでも撮影材料は自費購入してくれてたから。『ホームズ』の時も、「こんな画面を作りたい」と宮さんが言ったら、「使えるかもしれない」と、何万円もする水晶玉を自腹で買って来て。でも、結局使えなかった。それでも文句は言わない。
―― 発注先も含めて、全部同じシステムを使わなければいけないわけですよね。
竹内 基本的にはね。そのときに重要だったのは、その時のスタッフが使える使い易さと将来性とコストだった。だから、MACという汎用のハード、そこで動く汎用のソフトウェアでやろうということにした。あまりにも特別なものは、改変が利かないし、使い勝手の問題で、特別なプログラマーがいないと使えないところがあるから、それは困ると。僕自身もテストで塗ってみたら、「頑張れば、1日100枚塗れる」という目途が立ったからね。うちの仕上げにも塗らせてみて、最初は相当苦労したけれども。
―― 100枚できるというのは、例えば乾き待ちがないからですか。
竹内 乾き待ちがない。それから線がつながっていれば、塗りも速いからね。そのことによって塗り方も変わった。デジタル前は絵の具を塗る順番があって、薄い色を最初に塗ってはいけない。例えば白は、最後に塗らないといけなかった。でも、デジタルになったら、濃い絵の具から塗るという順番に縛られず、面積が多いところから塗っていけばいい。その方が塗り易いし、間違いも見つけ易い。そんなノウハウを見つけ出すのも、デジタルの方が早かった。
というのは、1人が作業しているモニターを複数の人が見られる。それをお互いに見せ合うことによって、何をやっているのか他の人が確認出来る。何が遅い原因かということも分析出来る。だから、デジタルになってすぐに速くなったのではなくて、デジタルをどのように使うかをお互いが考えるようになって、速くなった。目標は、仕上げで色を塗っていた、その人たちが、使えるようになることだった。
その当時はデジタルを入れると、「仕上げの仕事をなくすのか」と猛反対する人達がいた。それ以前にも僕は、絵の具を外国から買うという話を、ジブリに持っていった。日本では太陽色彩とスタックの2社しかなく、特に太陽色彩は、絵の具の精度が良くなかった。というのは、原材料がそのたびに違うから、人の手と目で確認して色を出している。だからどうしても、この瓶と次の瓶の色が同じ番号であっても微妙に違うということが起こる。
そのときにイギリスのクロマカラー社が来て、「クロマカラーはデジタルでそれを判断するから、全く同じ色を作ります」という話だった。「これ、いいじゃないか」と。うちはそれほど色数を使わないけれども、それでも300色以内、普通のTVシリーズは170~180の色数で、ジブリなんかは特別で450~500色近いから、「保田(道世)さん、これ、いいじゃない? 一緒に絵の具を買おうよ。そしたら安くなるから」と言ったら、「(日本の)絵の具屋を潰すのか」と、宮さんや鈴木(敏夫)さんに怒られた。「そんなこと言ったって、しょうがないじゃん」と。その次のときは、「デジタルで仕上げをやることにしました」という話を持っていった。そうしたら、「おまえは今度は、セルとかの産業を潰す気か」と言われた。「いや、それは違うでしょ。ハンドトレスでやっていたときにトレスマシンを入れたのは、あなたたちの世代じゃないですか。大量生産に、都合が良かったからでしょ。僕も別に仕上げをなくす気じゃなくて、仕上げをこれでやったら、良いことがあるんですよ。だって、色は無限に使えるわけだし、仕上げの人がこれを使ったら労働効率が良くなるから、良いことがあるんですよ」と。でも、怒られた。
でも、その3日後か1週間後かな、「デジタル化に関して話しに来い」と呼ばれて、「こういうメリットを考えて、デジタル化します」と、ジブリで話をした。当時の人はもう、ジブリにいないと思うけれど。
―― それは何年ぐらいなんですか。『スパイダーマン』の時ですか。
竹内 そうそう。『スパイダーマン』のとき。
―― 片塰(満則)さんは、もうそのときにいましたか?
竹内 片塰さんは、そのときはいない。
―― いない。95年の『On Your Mark』には参加されますよね。3DCGの方でプレゼンに行った。
竹内 僕は、売り込みではなく、呼ばれたということです。(ジブリが)仕上げでデジタルを入れたのは、『もののけ姫』が初めて。『もののけ』のときに、田中敦子さんがテレコムから出向していて、「作画が終わらないから、テレコムに帰るのを遅らせてくれ」という話があって、「それはまずいだろう」と、僕が言いに行って。そうしたら、宮さんは「帰さない」と言うし、鈴木さんは「チンチロリンで勝負しろ」と言うし。とにかくメチャクチャだから、あの人たちは。その後かな?宮さんが「仕上げが終わらない」という話になって、で、「だったらデジタルで塗ればいいじゃない」と言った。「デジタルで塗ると、ジャギーが出るだろう」という話になったけど、「ジャギーも解像度によって変わるし、今はアンチエイリアシングでジャギーが出ないようになる。解像度の問題だ。大体、色がつくのとつかないのと、どっちがいいんだ? 究極の選択だろ」という話をした。それで、「じゃ、やっちん(保田さん)を説得してくれ」と言う話しになり、そのまま「保田さん、塗りあがるのと塗れないのとどっちがいいの? デジタルで塗れば、今の塗り枚数よりも格段に速くなる」と話しに行った。そのときテレコムで採用していたのは解像度は144dpiか何かで、今と比べれば低かった。それだと劇場用でジャギーが出てしまうのでは、というやり取りもあったが、テレコムではフィルムテストもしていたので、これでも大丈夫だよと。その上で、「だったら処理スピードの速い、要するに高いパソコンを買えばいいじゃないか。うちは買えないけど。それだと解像度を高くすることができるから、大丈夫だよ」という話をしたら「うん、そうか」という話になった。その何日後かに、当時高かったMacintosh Quadraをジブリは買った。本当に、うちなどはとても買えないもの。
そのときに、「うちとか高橋さんのところは、デジタルでやってるよ。塗れる頭数がいるぞ」という話をしたら、高橋さんのところに話を持っていって、それから高橋プロとのつながりができた。それで高橋プロは良いパソコンを買った。それで、『もののけ』は、デジタルで塗ることによって、クリアになったはず。
CGに関して言うと、そのとき宮さんは、どのような画面を作り出せるかということで関心を持っていた。宮さんが見せてくれたカットは、アシタカがイノシシ神に追われて、草原を駆け下りてくるカット。草原と林と、空だったかな、それぞれのレイヤーの引き方向が違っていて、草原の草が奥の方にパースが付いて流れていくようなものだったと思う。目立たないけれど、デジタルでなければできなかったシーン。それと、よく取り上げられる山に向かって火砲を撃つカット。それを、「竹内くん、ちょっと見てみろ」と自慢げに話す。宮さんは、自分が作りたい画面のイメージが明確にあって、それを実現させることには非常に貪欲だから。自分が作りたい画面ができるからデジタルを使うというだけで、僕のように全体の作業効率とか、一般的に表現力が上がるとか考えたりしない。けれどもこちらは蟻んこの集団で、完成画面のクオリティと労働力の問題なんだ。
―― 効率化ということですね。
竹内 そうそう。だけれども宮さんは、そこに焦点はない。そこが、宮さんのおもしろいところで、そこに関しては、「こういうふうに塗ればいいんじゃないの?」と言うと、「やっちん(保田さん)のところで、おまえが言ってくれ」という話になる。
あと、撮影の奥井敦さんも、早くからデジタルに関心があったね。彼は『AKIRA』で三澤さんが連れてきて、スリットスキャンでバイクが走るシーンなどやっている。スリットスキャンも、『NEMO/ニモ』が最初だった。
東京ムービーで、マルチプレーンのカメラ台を作った。セイキが設計してね。高さがあって、なおかつ台の動作をモーターとコンピュータでコントロールするから、それでスリットスキャンもできる。それをテストをした。それは最初「AKIRA」の撮影監督だった、三澤さんが一緒にやっている。
『AKIRA』のプロデューサーも、最初は僕だったからね。テレコムに加藤俊三さんから「『AKIRA』という超大作があるから、やらないか」という話があって、「分かりました」と。それで三鷹に空き物件があるからということで見に行って、生協の2階のところに(スタジオを)決めた。テレコムも『AKIRA』に全面的に入るということで、大友さんも喜んでくれて。僕もスタッフ集めをして、シナリオも作った。そうしたらその後で、『MEMO/ニモ』をやらなければいけないと。それで、「すいません。みんな引き上げます」と言って、僕も含めてテレコムはみんな引き上げた。ひどい話だけれど、東京ムービーとしては、『NEMO/ニモ』を作らないことには、もうそのときに何十億というお金を借りているわけだから、大変なことになってしまう。
―― とにかく成果物を出さなければいけない、ということですね。
竹内 そう。話は戻るけど、撮影台にコンピュータコントロールを取り入れたのも『NEMO/ニモ』だね。それ以前からそういう気運はあったけれど、やはり『NEMO/ニモ』をやることで、スリットスキャンのようにデジタルでコントロールできる、あるいは何層かのマルチプレーンもできることを想定して作った撮影台だった。パイロットの冒頭の、王宮にカメラが寄っていくカット。そのカメラであればできるだろうということで、あれを作った。
途中でベッドが廃墟のような処を飛ぶシーンでは、BOOKを幾つも重ねて撮っている。あのカメラであれば、オプチカルで重ねるにしても、マスクとのずれなどを小さくできるだろうと。コンピュータのコントロールで線画台で何回も同じストロークを繰り返すことができるから、ブックを何枚も重ねたりした。だからあれは、そのような機材のテストを含めて作ったパイロットなんだ。
―― 『NEMO/ニモ』は最初に出るTMSのロゴ自体が、もうスリットスキャンですね。
竹内 そうそう。あれも、スリットスキャンができるぞ、というテスト。『スターウォーズ』の1作目の強烈なインパクトがまだ残ってる時代だったからね。他にも本編のときに使った機材で、三菱のマルチ・オーディオ・トラック・システムというものがあって、初めてダビングで使用した。それまでの音のテープは2チャンネルしかなくて、複数の音トラックを同時にコントロールすることができなかった。だけど、この三菱のマルチ・オーディオ・トラック・システムは32チャンネルだったかな?32の音を、デジタルでコントロールできる。それで、『NEMO/ニモ』のダビングが随分助かった。『NEMO/ニモ』の完成版は6チャンネルだったからね。当時は音トラックは4チャンネルのオプチカルだけで、6チャンネルの音トラックのフィルムなんて日本じゃやってなかったから。そのマルチ・オーディオ・トラック・システムという機材が、「MA」という呼び方のはしりなんです。あの「MAする」とか言うのは全く英語とは関係なくて、IMAGICAがマルチ・オーディオ・トラックの機材を入れた編集室を造って、それを「MA室」と呼んだ。そうすると、コマーシャルの人などは便利だから、みんなそれを「MA、MA」と言って、MA室を使ったわけ。今はテレビなどでも、完パケを作るときに、音や絵を簡単に編集できるので、MA室を使うわけ。でも元々の「MA」は、ミックス・オーディオでも何でもなくて、マルチ・オーディオ・トラックのMAなんです。
(第5回【「合作」での海外企業との交渉】に続く)