【4,海外との「合作」】
(第1回 「日本アニメーションからテレコムへ」はこちら)
―― このプロジェクトの中で、何度かアメリカと交渉したり、あちらからのレクチャーを受けたり、ディスカッションをしたりして、どのような技術蓄積ができたんでしょうか。
竹内 『NEMO/ニモ』のプロジェクトでは、最初に行った1982年のレクチャーと、多くのスタジオを回ったこと。それが一番大きかった。あとはもう、『NEMO/ニモ』ではなくて、フランスの仕事とか。結局、『NEMO/ニモ』のときのレクチャーの結果が一番大きく出た作品は、フランスのものではないかな。『リトルズ』か。『リトルズ』は、フランスのDICという会社がアメリカに売り込んで、それを作る仕事が入ったので。そういうもので、アメリカのフランクたちが言う技術を、逆に再確認できた。
―― DICだと、『ユリシーズ31』が最初ですね。竹内さんはテレコムで関わられていたんですか。
竹内 結局ボツになった、パイロット版だね。途中で発想が、非常に大きく変わってしまって、あちらと反りが合わなくて。それでパイロットだけで、やめた。これは、渡米前だね。
―― それで渡米後に、『リトルズ』。
竹内 そう。渡米後だと、やはり『リトルズ』だね。渡米前の一番は、『名探偵ホームズ』。テレコムがどこまで作ったという記録も全部取ってある。クレジットに反映されてない部分もあるからね。これはイタリアのRAIとの合作だけれども、やり取りにすごく時間がかかって、なかなか正式なゴーサインが出なくて。結局、映像にしたのが4本、動画までできていたのを入れると6本かな。その後、背景やストーリーの資料も含めて全部東京ムービーに渡して、むこうで作った。なぜ『名探偵ホームズ』を途中でストップしたかというと、『NEMO/ニモ』を作らなければいけないという話になったので。
―― 『NEMO/ニモ』優先で、ストップさせた。その判断元は、藤岡さんなのですか。
竹内 うん。それはもう、藤岡さんだね。至上命令で、『NEMO/ニモ』やらなければいけないということ。だってそうなると、『ホームズ』に宮さんも関われない、友永さんを含むメインスタッフが、誰も関われないということになってしまうから。
『ホームズ』は、最初はマルコ・パゴットが、「こういうもの、合作でやりましょう」と、持ってきたわけ。けれど、そのキャラクターデザインが気に入らないから、宮さんが作り直した。そのときに、どのような状況設定で、どのようなストーリーにするかというアイディアを、近藤、丹内、友永、富沢、その辺りのスタッフでイメージボードを描いて、それこそブリティッシュカウンシルに行って、いろいろな資料を借りてきたりして作った。宮さんの主導で仮の26話の構成案も作っていた。けれど、シナリオを送ってもキャラクターデザインを送っても、なかなかイタリアから返事が戻ってこない。すごく、ゆっくりゆっくり進んでいたわけ。それでさっき言ったように、4本ぐらいしか映像にならなくて、そのときに『NEMO/ニモ』の話が降って湧いて、『ホームズ』のメインスタッフが全員、『NEMO/ニモ』に関わらなければいけないとなった。だから、話しとしては『ホームズ』をどのような止め方にするかということだけで、『ホームズ』の制作を続けるという選択肢は全く許されなかった。動画が手あきにならないように、原画が手あきにならないようにということを考えて、「じゃあ、動画まで持っていこう」「これは仕上げまで行こう」というようにして、『名探偵ホームズ』からは、『NEMO/ニモ』をやるために離れた。
―― その時までのものは、イタリアのRAI側の反応はどうでしたか。
竹内 出来上がったものに対しては、評価が非常に良かったよ。
―― あちらの要求との齟齬は、特になかったんですか。
竹内 いや、齟齬はありっぱなしだよ。
―― あるんですか。あるけれども、出来上がったものは、良い。
竹内 だって、マルコの顔は丸潰れだものね。最初に彼が持ってきたオリジナルのデザインと全く違うから。ハドソン夫人が人間になってるし。で、宮さんと話し合ったって理屈など何もない。元々、ハドソンは、下宿屋のおばあさんだから。そういうところは、「俺がやりたいから、こうやった」というだけの話じゃない。 だから通訳を入れて話しても、話にならないわけだよ。マルコも悔し泣きするよ。だけれども仕方がない。やってしまったものは、やってしまったもので。「おまえのイメージを十分尊重してやったんだ」と。おもしろければ、それでOK。最後に出来上がったものが、良かったのだから。その後は、マルコはもう「宮崎さん、宮崎さん」とジブリに行ってすりすりだから、よかったよ。
それが82年でしょう。83年、翌年には、偏光フィルターのテストをやっている。
―― それは『NEMO/ニモ』のためですか。
竹内 最初に渡米したときではなくて、83年の3月か4月ぐらいに、ドン・ブルースのところに行ったとき、撮影で偏光フィルターを使うと、ハレーションが消えるという話があって、「偏光フィルターって何だ?」から始まって、研究を始めて、それで取り入れている。レンズ前とライト前に入れると、こういう原理でハレーション(乱反射)が消えると。
それを、当時、『NEMO/ニモ』の撮影が三沢(勝治)さんだったので一緒に行って、撮影の旭プロとか、あとは長谷川(肇)さんのトムス・フォトでもテストをした。そのとき、高橋(宏固)さんのところと色々なことをやっていたので、宏固さんとも話をして。それは、日本の撮影業界に、すぐに拡がっていったと思うよ。これでハレーションのリテイクはかなり減った。それまで日本では、偏光フィルターは使っていなかったからね。日本でもパナックのものや東レのものなど幾つか偏光フィルターが見つかって、それもテストした。
―― その頃の渡米は、名目としては一応、『NEMO/ニモ』のための研究開発ということなんでしょうか。
竹内 この辺りは『NEMO/ニモ』だったり、他の合作もあったかな。
―― 並行してやっている合作の打ち合わせでも、行っているということですか。
竹内 行ってるね。でも基本的には、『NEMO/ニモ』。このときも、アンディや近ちゃんのアイデアを持って行って、話している。ゼロックスのトレスマシンとか、ライオンラムという線撮り、ラインテストの機械を研究したりもしている。『NEMO/ニモ』は70ミリだったので、フイルムの使用量も大きいし、解像度も高くなるから、絵を描くときも大きい紙に描かなければいけない。大きい紙に描くことによって、それまでのトレスマシンが使えないので、ではどうしたらいいかということで、テキスタイルなどで使う大きなゼロックスのコピー機、薬品の蒸気でカーボンを溶かして定着させるというものでできないかということで、そのテストもやった。
―― 70ミリはサンリオの『星のオルフェウス』、原題『Metamorphosis』が、あったと思うんです。
竹内 あれはアメリカに行ったときに見せられたけれども、「これはやらなくていいや」という映画だったね。
―― それこそ、ストーリー性が希薄ですからね。
竹内 うん。あれは、「ファンタジア」を目指して作ったという話で。
―― (『星のオルフェウス』は)アメリカで作ったものだから、日本では70MM対応の設備がなかったということですかね。
竹内 ごめんなさい、『星のオルフェウス』の事情は、分からないので。ただ僕らは、70ミリでアニメーションを作るといったときに、その設備が日本は元より米国にもないから、35ミリのフイルムを横流れで使って、オプチカルでそれを70ミリのポジに焼き直すことにしたんです。その費用も全部、単価が幾らなど出している。
―― 単純に、フイルムを2倍使ってしまうということですね。
竹内 そうそう。35ミリの8Pから4Pラッシュを作る金額も出した。70ミリの場合はオプチカルで音を焼けないから、フイルムのエッジのところに磁気コーティングをして、それから音を入れなければいけない。だから、ポジフイルムを作るのが大変だった。
サンリオは、日本で70ミリ公開したのかな。公開していれば、これほど僕は調べるのに手間はかからないんだけど。何回もIMAGICAや東京現像所と話した。アメリカでは70ミリだったのかもしれないね・・・。
―― 先ほどのゼロックスのトレスマシンの研究も、それまでのトレスマシンでは、70ミリで上映したときに、もう耐えられないということですか。
竹内 そう。今風の数字で言うと35MMと70MMの違いは、2Kと4Kの画面のようなもの。画素数が4倍に増える。だから大きい紙に描かなくてはいけない。その大きい紙に描いたものをトレスマシンでトレスするのはちょっと無理だ。で、ゼロックスを使えないかと。やってみたけれど、最終的には使えなかった。セルにコピーするのにあまりにも手間がかかり過ぎること、トレス線が表に着いて塗り難いこと、そして、気化した薬品でトレス線を蒸着させるんだけど、それがアセトンだかなんかで、とにかく体に良いものではないからマスクをしてやらなければいけないとか、人手と手間と健康の問題があって、テキスタイル用のばかでかいコピー機を入れたけれど、ほとんど使えなかった。
―― その辺りは、どのように代替したんでしょうか。
竹内 最終的にパイロットを作るときには、紙の大きさを描き込みが出来て、尚且つトレスマシンを使えることなどを含め、取り扱が出来そうなところまで小さくした。だから、『NEMO/ニモ』は、本当にアニメーションの作り方や、日本にあるアニメーションの技術を根底から覆すようなプロジェクトだった。そこで研究したことが、とてもたくさんある。
(第5回【デジタル制作への移行】に続く)