2023年12月29日、日本アニメーション教育ネットワーク(JENA)理事・竹内孝次氏にオーラルヒストリー調査を行った。同氏の証言では、普段あまり見聞きすることのない海外企業とのアニメーション制作の実態が克明に語られており、今後のアニメーション研究における貴重な資料になると思われるため、ご本人の許諾を得て以下の通り公開する。インタビュアーはRIVNA副所長、開志専門職大学アニメ・マンガ学部准教授の木村智哉が務めた。
竹内孝次(たけうち こうじ)氏 プロフィール
1953年生まれ。日本アニメーション株式会社で、「母を尋ねて三千里」「あらいぐまラスカル」「未来少年コナン」「赤毛のアン」の制作に携わり、その後株式会社テレコム・アニメーションフィルムに移籍。「名探偵ホームズ」「劇場版じゃりン子チエ」「ルパン三世(PART2)」「NEMO/ニモ」等テレコム作品の制作に携わる。
1989年より2012年まで、テレコム・アニメーションフィルムの社長を担う。
2011年に「アニメーションブートキャンプ」のプログラムを発案し、そのディレクターを務める。そして、本プログラムの実施団体である一般社団法人日本アニメーション教育ネットワーク(JENA) の理事でもある。
また、2015年より東京アニメアワードフェスティバルのフェスティバルディレクターも務め、現在に至る。
【1,日本アニメーションからテレコムへ】
竹内 1976年かな、日本アニメーションの作品だと『母をたずねて三千里』に、僕は1月から入りました。それがキャリアのスタートです。日本アニメーションで4年間、『母をたずねて三千里』、『あらいぐまラスカル』、『未来少年コナン』、最後が『赤毛のアン』。『赤毛のアン』が12月までですから、それが終わって翌年の1月か2月で、テレコムに移りました。その後は、ずっとテレコムです。
―― 業界に入られるきっかけは?
竹内 きっかけは、その前年がオイルショックで、僕には関係なかったけれども、就職口があまりなかった。僕はドキュメンタリーなどをやりたいと思っていて、でもとにかくフイルム関係の仕事がほとんどなくて、幾つか会社を受けたけれども、なかなか受からない。そのときに日本アニメーションで、「将来のプロデューサーを~」という謳い文句があったんだよね。でもアニメーションを、僕は知らない。そのとき、テレビ東京にいた先輩に、「アニメーションのこういう会社があって、新聞広告で募集をしているようなんだけども、これはどういうことでしょう? アニメーションって何でしょう?」と聞きに行きました。そうしたら、「どうやら見てみると映像関係のことらしい。映像関係だったらお前、とにかく受けてみろ。現場でいろいろ覚えるのもいいじゃないか」と言われて、「はい、分かりました」と言って、受けに行った。そしたら「すぐ来い。すぐ来ないと、他の人が決まったら、もうなくなっちゃうよ」と言われて。そのときはまだ僕は学校が3月まで残っていたので、大学に卒論を週2日ぐらいやるから、あとは日本アニメーションに行かせてくれという交渉をして、日本アニメーションに1月から行き始めました。僕は(アニメーションを)全く知らなかったので、そのときには宮崎(駿)さんや高畑(勲)さんが制作班にいて、いろいろ聞くと丁寧に教えてくれました。それでアニメーションを覚えたことが、僕はすごく良かったと、結果として思っています。
―― 『母をたずねて~』が1976年の放送だったので、76年1月、大学在学中から日アニにいらしたということですね。
竹内 そうです。僕は、76年3月に、正式に大学を卒業したので。
―― 日アニの頃から、制作のお仕事ですか。
竹内 そうです。日アニは制作進行を募集していて、それが、「将来、プロデューサーになれるよ」という言い回しだった。制作進行が何なのか、本人は全然分かっていないんですよ。アニメーションをやりたいとも思っていないし、制作になりたいとも思っていないし、すごくいい加減でした。
そのときに僕が受けたところは実写のプロダクション。世界を回ってドキュメンタリーばかりを撮っている日本映像記録センターやテレビマンユニオンも受けに行った。あとはTBS。昔は試験枠のようなものがあったじゃないですか。「ここの大学だったら受けられるけれども、それ以外はだめよ」という。うちの大学はその受験資格校に入っていなかったけれども、TBSに先輩がいて、「おまえ、なんとか受けられるようにはしてやる」と。それで、僕は受けに行きました。
知らなくて受けに行った僕が悪いけれども、それはアナウンサー試験で、3次まで行ったんですよ。随分後、10年後くらいになって、その先輩にカンヌで会ったときに、「あのときは試験受けさせてもらって、どうもありがとうございました」と、挨拶に行ったんだ。その人は報道局の人で、「君、結構いいところまで行ってたんだぞ」と言われて、「ああ、そうですか」と。
―― アナウンサーだから、カメラを撮る側ではなくて映る方ですね。
竹内 そう。そんな試験でした。試験の時も、「どこか違うな」とは思っていたんだけど。だから本当に、僕はいい加減なの。
―― 日アニに入られて、そこからテレコムに異動されるわけですが、そのときのきっかけは何だったんでしょうか。
竹内 『赤毛のアン』のときに宮崎さんが辞めて、とりあえず僕は高畑さんと近藤(喜文)さんに、最後までつき合おうとは思っていて、でもやはり苦しかったです。仕事がきついんですね。夜ばかりなので。だからアニメーションをやめようかなと思っていた。そうしたら、先に大塚さんがテレコムに行っていて、ちょうど『(ルパン三世)カリオストロの城』が終わったところで、「来ないか」と声を掛けてくれた。見に行ったら宮崎さんもいて、「おまえ来いよ。今度、昼間働くような会社を作るから、やろう」という話になって、それで行きました。
―― 実際、昼に働く会社だったんですか。
竹内 そう。そのときは朝9時開始で、夜は5時までかな。
―― 本当に普通の会社ですね。
竹内 みんな社員ですからね。ただ結局、作品を作るというとなかなか5時では終われなくて、当時はアニメーターにも残業代を払っていたんです。それがとにかくバカにならない。それで、どのように管理したらいいかというようなことを、宮崎さんと話をして、作業表をつけたりして。僕は制作進行で、作品を作るのと同時に人の管理をやって、それでかなり賃金ということを考えるようになった。それまで、日本アニメーションのときには、動画や原画は出来高だったからね。それに対して社員とはどのようなものか、効率や単価、払う費用と労働が生み出すものが、うまくバランスが取れるのかどうか、そのようなことを考えだした。毎月毎月きちんと、一人一人の作業量や作業時間などを全部表にして、出したからね。
―― アニメーターにも月給で払っていたということですね。
竹内 そうです。
―― それは、どなたが決定したんですか。
竹内 決定したというか、スタート時からテレコム・アニメーションは社員制だったんですよ。
大塚さんが、やはり作品を創らなくてはいけないということで宮さんを呼んで、作ったのが「カリオストロ」。そのとき、友永(和秀)さんや山内(昇壽郎)さん、丹内(司)さんなど、要するに、外の人をたくさん呼んだわけ。その人たちが中核になって、テレコムが形づくられたということなんですよ。
(テレコムは)スタート時から社員制ということで、そのシステムはあった。社員がいいかどうかは後に問題になるけれど、昼間に仕事をして夜は帰る、そして、みんな休みには休むようにして、アニメーションを作り続けようという発想が、宮崎・大塚のところで、もうあったんです。
―― 宮崎さんや大塚さんの構想にあったということですか。藤岡さんはどうだったんでしょう。
竹内 藤岡さんは、(その辺は)どうでもいい人だったから、「社員にしろ」などとは言ってない。「うまくいけばいいや」という。だから、ほとんど何の相談もせずに「社員だ」と。
―― 後々、ジブリも社員制にするじゃないですか。その辺りの経験は、やはりテレコム時代の発想が残っているんですか。
竹内 経験というか、宮さんが「昼間仕事をして、夜はちゃんと帰るべきだ」という発想を持っているからね。宮さんだけではなくて、大塚さんも含めて。元々、東映(動画)だからね。
その当時のアニメーションは昼も夜もなく、「ただ、がむしゃらに働け」という感じだった。それだと年を取ったり、あるいはみんなが家庭を持ったりしたときに、生活を維持できない。それはまずいと。やはり社会生活を営めたり、きちんと家庭の人であることを全うできたりするようなシステムにした方がいい、というような発想が明らかにあった。
―― それは、劇場版を作っているときでも、ある程度、徹底されたんですか。『カリオストロの城』の時とか。
竹内 『カリオストロの城』のときは、僕は現場にいないから、知らないけれども、でも、それほどうまくいかないですよ。その後、テレビシリーズも劇場も、たくさんテレコムで作ったけれど、結局あがらないとなったら人数でカバーするか、あるいは労働時間でカバーするしかないから。どうしてもそうなる。
『ルパン三世(PART.2)』の最終話の「さらば、愛しきルパンよ」は、仕上げはリタイアした人たちにお願いして、それこそ高畑さんの奥さんや、大塚さんの奥さんを動員して、僕たちも塗って、それでも3日ぐらい徹夜。そうでないと上がらないんだもの。上げないといけないので、そうせざるをえない。だから、理想は理想としてずっと掲げているけれども、そのままいくことは、なかなかない。
もう一つは、先ほど言ったように作業表をつけているけれども、結局は人によって、作業スピードが全然違う。そうすると、社内で軋轢が起こってくる。「私は、あの人の倍描いても、給料は倍にならない」と。それはどちらかというと、遅い人が問題なんだ。速い人には給料を払いたいし、払えるけれども、遅い人にも払わなければいけないという、会社のシステムの問題なんです。それは随分後になってから改めるけれども、それまではとにかく、遅い人に「速く書いてください」と。勧告というよりも、一生懸命に「速くするためには、こうしたらいいんじゃないか」という、社内レクチャーなどを繰り返したわけです。
―― 遅いとは、カットが上がってくるのが遅いということですか。
竹内 本人の手が遅いんです。アニメーションの能力が、ある程度ある人でも生き抜くことは大変なのに、初期のテレコムは能力があるかないか分からない人を採っているわけ。だけれども社員だから、むげに辞めさせることはできない。とにかくスタートのテレコムは、とても大変だった。
―― 取りかかるのが遅いというようなことではなく、やっているけれども、時間がかかるということですね。
竹内 そう。例えば、1時間かけて1枚描く人がいる。15分で1枚描く人もいる。難しいカットだったら1時間かけてもいいけれども、楽でも難しくても変わらない。なおかつ、上がりの中身が悪い。それをどのように改善していくのか、後々までかなり引っ張った。
―― アニメーターの仕事は、いろいろなカットを任されますよね。一つ一つ、難易度が違う。速さと報酬を、誰がどのような基準で判断すれば、ある程度の妥当性が認められるのかということは、かなり難しい問題な気がします。
竹内 そうだね。どこまで行っても。動画と原画は仕事の中身が違うので、アニメーターと一括りには出来ないけれど、いずれにしても、発注を受ける側と発注する側が、完全にイコールになることはない。ただ、発注側としては、皆さんの目に見えるような形でカットを配る。他の人が見たときに公平と映るかどうかの問題が、僕にとっては一番大きかった。
例えば、小さい絵柄の走りの動きをやる。そうしたら次は、アップの絵で表情の演技をやる。というように、絵の大きさや演技内容で、交代交代でやっていく。あるいは、非常に複雑な絵。1枚の中にキャラクターが3人出てきて動く。それに対して、キャラクターが1人で動く。単純に言えば、3人の方が3倍かかる。だから「この絵を受けてください。その次には、1人のものをお願いしますから」。あるいは、3人入ったものを3倍にはできないけれども、「1.5倍にしますから」などとやる。そういうことで、他の人にとって公平に見えるように、努力をしました。
―― 複数カットで労力のバランスを取っていくということですね。単価を上げることは、社員にはできない。
竹内 単純に言うと、作業量が10の人と5の人がいたときに、作業量10の人には100を払って、5の人には50を払うということができればいいけれども、社員の給料は、そうはいかない。それほど変えられないから、せいぜい100と80ぐらいにしか変えられない。そうすると、作業量が5の人に、8をやるようになってもらわなければいけない。これが大命題です。
ところが、ここになかなか到達できない。到達できなければ、最終的にはその人が諦めて、辞めてくれるのが一番いい。辞めさせるのは、非常に酷なことだから。だけれども、それもやりました。僕1人の判断ではなくて、複数が見たときに、この人の作業能力は、これから仮に1年頑張ったとしても、上がっていかない。上がらないということは、その人が仮に今25歳だとしたときに、そのまま26、27になっていったら給料が上がらないということになるから、「それは、あなたにとっても良くないことだ」と。そのような話をするしかないから、しました。僕1人で話すこともあったけれども、できるだけ誰かが一緒にいるか、あるいは、その判断の前段階として、複数で判断する。「この人はこういう状態で」と、物を見せたりして。そういうことをしていった。
―― 複数で話すというのは、やはりアニメーターの方も入って考えるということですか。
竹内 立ち会ってもらったこともある。ただ、それは酷なんですよ。
―― 先ほど、制作側とアニメーター側で必ずイコールになることはないと言われましたけど、どの辺りまで、両者が歩み寄れるとお考えですか。
竹内 どの辺りまでということは、難しいね。制作の経験や、そのジャッジが公平かを、向こうが受け入れるか、という話になるからね。どこまで制作と動画や原画の人がイコールの目を持てるかは、非常に難しいと思う。
―― イコールになり過ぎてもまずくはないですか。
竹内 いや、イコールになって、まずいことはないですね。それとは別の問題として、予算と要求するクオリティのバランスということがある。これは、いち制作進行・いち動画・いち原画の話ではなく、プロデューサーと作品という話になってくる。僕がプロデューサーになってから困ったのは、この、作品のクオリティをどの程度にするかという問題だった。例えばテレビ局などは、要するに、「良い作品を作ってくれ」と言う。だけれども、この金額だと、これくらいのクオリティしかできないということがある。中には100のお金なのに、「200のクオリティを作れ」と言う人がいるわけ。「それは無理です」と。そこを納得させることが大変なんです。
コマーシャルの方が分かりやすかった。コマーシャルのときは、非常に短い尺のものが多いから、「この短い尺に人を何人入れて、何日間かかります」と説明すると、分かってくれる人が、かなりいた。ただ、テレビシリーズの場合は、その難しさを容認する局などのプロデューサーはほとんどいなかった。
―― 局プロが、ということですね。
竹内 そう、局や代理店です。彼らは、「良い作品を作れ」と言うだけで、「どうやって」が完全に抜けている。
―― CMの方がそれを分かってくれるというのは、どうしてなんでしょう。
竹内 CMは元々、実写の時から人工計算があったから。ここで撮影するときに、照明さんが何人必要で、何時間撮影するためには、大道具さん、小道具さんが何人。そういう構想でやらなければいけないということが分かっている。
日本のアニメーションの場合には、人工計算の発想が、予算作成にまったくない。最初から動画は単価幾らというように、要するに総額があって、「それをみんなで割れ」というようなどんぶり勘定の話になっている。
だから僕は、アメリカに行ったときはやりやすかった。論理的思考がきちんと通用するから。アメリカにいたときは、「これはこういう作業が要る。だから、こういう費用が必要になる」と説明すると、納得してくれる。日本は、そうではないからね。「いやいや、前はこういう金額でやってるじゃん」と、雰囲気だけしかない。
だから日本ではテレビシリーズも劇場も、最近は分からないけれども、人工計算が通用しなかったから、非常に苦しかった。
―― 「総予算が決まっているので」と、その場で拒否される。
竹内 どんぶり勘定で「よろしくお願いします」と。でも、どんぶり勘定の割には中身にゴチャゴチャ言ってくる。
(第2回【『NEMO/ニモ』との関わり(1)日米アニメーション観の違い】に続く)