【3,『NEMO/ニモ』との関わり(2)各パイロットフィルムの制作】
(第1回 「日本アニメーションからテレコムへ」はこちら)
―― 次に、84年のパイロットフイルム、いわゆる近藤・友永版といわれているもの。
竹内 近藤版。はい。
竹内 最初の、近ちゃんが監督のものですよね。
―― そうそう。
竹内 あの時僕は、アメリカ人のアンディ(・ガスキル)と近ちゃんの2人を、荻窪の旅館に缶詰にして、90分の作品全体をこのようにするという全編の構成を、ストーリースケッチ的な絵も描きながら作ってもらった。その頃、ゲイリー・カーツがイギリスにいるというので、二人が全構成を作り上げたものを持って、イギリスに行くことになっていたわけ。だから、それまでに作り終えなければいけない。それで、「作り終わりました。はい、行きましょう」となったら、藤岡さんが裏でいろいろな人に相談していて、ゲイリーをクビにしてしまった。そのクビの話が、ゲイリーからアンディに、僕たちよりも早く伝わって、アンディはやる気をなくして、すぐにアメリカに帰ってしまった。
その後、近ちゃんも、「じゃあ意味ないから辞める」と言うから、「待て」ということで、パイロット的なものを作ろうと。そのときに一番中身が濃くて、もしかして後になっても使える可能性がある部分だったら、パイロットとしても意味があるだろうと。それが冒頭の、トレイン・チェイスと言われている部分だった。だけれども、それは少々手間がかかり過ぎるということで、それに代わるものとして、友永さんを中心にして、あそこのベッドのところをパイロットにしましょうということで、池内(辰夫)さんと藤岡さんを納得させて、「3か月ください」ということで期限を切って、スタッフもアメリカ人で残っていた人が何人かと、近藤、友永、富沢、田中、あとは美術の山本二三、それだけかな。それで作らせてくれと、藤岡さんを説得して作ったものが、あれです。
―― 結局、見せる相手は、誰だったんでしょうか。
竹内 あれは見せるというよりは、とにかくそのときに何かを残しておかなければ、もうこのチームは崩壊する。近ちゃんが「辞める」と言っているのだから。それを防ぐためには、とにかく何か形を残さなければいけない。ここまで準備をしていたのだから。もうその当時は、アニメーションのクオリティに関しては、かなりのものが出せることが見えていた。フイルムの研究もしているわけだから。8パーフォレーションの70MM、要するに35ミリのフイルムを横に使って、1:2.3という横長の画面のネガを作り、オプチカルで70MM縦流れのポシを作ろうという技術実験を行った後で。それが全部消えてしまうのはダメだと。技術もスタッフの確保も含めて、1回作らなければいけない。それでやった。だからあれは、70ミリ対応になっています。
―― 実際に、本編も70ミリで公開していますね。
竹内 本編はポシを70MMにしただけです。このパイロットはネガから70ミリ対応になっています。で、見せる対象は、別に決めていなかった。だけれども、それを作り終わったら、出来が良いということで、藤岡さんはそれをそのときの出資者のレイクに、「こういう状態ですよ。動いてますよ」ということを見せた。それからディズニーのフランク・トーマスとオーリー・ジョンストンにも見せたら、「こいつはすごい」という話になった。だったらそのまま作らせればいいのに、それでまた金集めや、次に誰に監督を振るかという話が始まってしまった。あれで、近ちゃんに作らせておけばよかった。でも近ちゃんも、あれが初めての監督だったので、音をどのように付けたらいいかというようなことに、非常に迷いがあって。
パイロットの冒頭のほうに、ニモがベッドに乗ったまま空中を漂っている、そこから眼下の川に向かって飛び下りていくというスピーディーな展開に変化するんだけど。ダビングが終わった後で、近ちゃんに、「ロンドンの街の上空でベッドが漂っているところ、あそこは音楽なしで風音だけをもっと長く聞かせればよかったのに」と言ったら、「だったら、先に言ってくれ。俺もそう思ってた」という話になって。「近ちゃん、それは違うだろう。あんたが監督だから、あんたが言わなきゃだめだろう」、「竹内さん、俺にもう1本、何かちっちゃいのをやらせといてくれたら、俺はそれ言えたかもしれないけれど、経験が無くて全然分かんないから、言えない」と。近ちゃんは、音の作業をするのが初めてだったんだよ。だから、あれはアニメーションとしての完成度は高いけれども、音としては、まだ不満があった。結局近ちゃんは、あれを作って辞めるんだけど。
―― その後さらに出来ているパイロットに、出崎バージョンがありますね。
竹内 その前に大塚さんがフランク・ニッセンと共同監督になっていたけれど、これも大塚さんが藤岡さんに怒ってしまって。藤岡さんが元凶なんですよ。
出崎さんが入るのは、スポンサーが「全然進んでないだろう。だったら金返せ。大問題だぞ」という話になって。何か作らなければいけないから、とにかく作ったものです。あれも、あまり話したくないな。
―― 出﨑さんを、本当に長編の監督に据えるということではないのですか。
竹内 いやいや。出﨑統さんで作らせようと、藤岡さんはそのとき思っていた。宮さんが消え、高畑さんが消え、近ちゃんが消え、そして出﨑さん。最初の頃にも藤岡さんは、出﨑さんに声をかけている。それで「出﨑統でどうか」という話がまた出て、「じゃあ、パイロット作りますか」という話になった。
―― そして最終的に、波多さんに監督が渡るわけですね。波多さんはサンリオで、アメリカの作品に触れていますが、その辺りの関係で呼ばれたんでしょうか。
竹内 ディズニーのテレビ作品をムービーで請け負うことになって、手が足りないし、アメリカ作品に造詣があるからということで、サンリオのチームが、山本暎一さんとかが、ムービーに来ていたわけ。
何故ディズニーの仕事を取れたかというと、ディズニーが初めてテレビシリーズを作るときに、韓国と日本の数社にコンペをさせたんです。『ワズルス』という作品で。
30秒ぐらいだったかな。「この絵コンテで、映像を作ってくれ」と。それで東映と、AKOMという韓国の会社と、テレコムの3社が同じ絵コンテでのコンペだった。東映とAKOMは、その当時、マーベルなどでテレビの合作をさんざんやってきている。それに対してムービーはまだほとんどやってない新参者だから、ディズニーとしても見込みとしては、東映かAKOMだろうと思ってたわけ。ところが、テレコムが一番早く納品して、抜群に出来が良かった。
しかもうちは、絵コンテのカットを少し変えた。というのは、絵コンテの流れが悪かったので、それを近藤、富沢が修正して、きちんと流れるようにした。AKOMは1回出したけれども、だめだったので、「もう1回やらせてくれ」と再度トライしたけれど、テレコムのクオリティーには達しなかった。東映もだめ。東京ムービー新社が一番良いということになった。実際はテレコムがやったんだけれどね。そんな訳で、それから、『ワズルス』が来たり、『ガミー・ベアーズ』『ダックテイルズ』が来たりするようになった。そういうディズニーの作品は手間がかかるからということで、サンリオ班が入ってきたわけ。
そこにいたのが波多さんだった。藤岡さんか池内さんかな、「彼はどうだ」と言うから、それで波多さんと話したら、とても朴訥で真面目な人で、「いいんじゃないですか」となって、白羽の矢を立てた。
―― では、波多さんたちが東京ムービーにいた時期があるということですね。サンリオ側の映画部門が縮小された頃に、『ガミーベアーズ』などを東京ムービーでやっていた。
竹内 そう、1985~86年辺りにいたんではないかな。
―― 波多さんのフィルモグラフィだと、『NEMO/ニモ』を除くと、サンリオがまた「ハローキティ」などの短編を作るまでの間に数年空いています。その辺りで『ガミー・ベアズ』などの仕事をして、それから『NEMO/ニモ』に入るということですね。そして、『NEMO/ニモ』が1989年に公開される。
竹内 確か、夏だね。
―― そうですね。7月になっています。
竹内 波多さんとウィリアム・ハーツで、やっとできた。
(第3回【海外との「合作」】に続く)