新潟視覚芸術研究所 × 開志専門職大学

オーラルヒストリー・竹内孝次氏(一般社団法人日本アニメーション教育ネットワーク)第2回

【2,『NEMO/ニモ』との関わり(1)日米アニメーション観の違い】

(第1回 「日本アニメーションからテレコムへ」はこちら
 

―― アメリカに行ったときの話を、おうかがいしたいと思います。きっかけは、『NEMO/ニモ』ですか。

 

竹内 「NEMO/ニモ」です。大塚さんの本(『リトル・ニモの野望』徳間書店、2004年)だと、1982年ですね。初めてアメリカに行ったときは、大塚さん、高畑さん、宮崎さん以外は、ほとんどが海外に行った経験がなくて。アメリカではフランク・トーマスとオーリー・ジョンストンのレクチャーを受けたり、スタジオを回って、どのような環境で、どのような作り方をしているのかをつぶさに見たりできたことが、やはり経験として大きかったね。

 

―― 大塚さんの本だと、フランク・トーマスなどからレクチャーを受ける前から、レイ・ブラッドベリのシナリオが届いていると。それで、渡米するわけですね。

 

竹内 そうです。レイ・ブラッドベリのシナリオに関しては、日本で翻訳を読んで、向こうでもスタジオに、ブラッドベリが来てくれた。そのシナリオは、それほどおもしろいとは思ってなかったけど、ゲイリー・カーツというプロデューサーがいて、彼が何を言うかによって物事が大きく変わるので、シナリオが良いかどうかより、ゲイリー・カーツがどのようなことを言うのかが、一番の関心事だった。

ブラッドベリの脚本は、アメリカに行っている間に全部が上がってはいないんですよ。「10月13日に、ブラッドベリの脚本が全文届く」とメモがあるので。英語では上がっていたのかもしれないけれど。

 

―― 翻訳は10月に届いているんですね。そのときは、もうアメリカに行った後ですか。

 

竹内 日本に戻ってきてからだね。高畑・宮崎・大塚さんと、僕も含めて、藤岡さんのところに行って、「ブラッドベリのやつ、おもしろくないですよ。このままだと、うまくいきません」と。それで、高畑さんと宮崎さんがそれぞれ、「私だったら、こう作る」というストーリーラインを用意しましょうという話になった。藤岡さんの迷走の始まりだね。

 

―― 藤岡さんとしては、要するに国際市場で見せられるものを、という発想ですね。

 

竹内 国際市場というよりも、そのときはアメリカだね。ヨーロッパのマーケットは当時はまだ小さくて、アメリカが一番の大マーケットだったので、アメリカで掛けられるものを作ろうと。そのためにはアメリカでヒット映画を作るプロデューサーがいなければならないということが、藤岡さんの大発想だった。だから、ゲイリー・カーツが何を言うかということが怖くて怖くて、彼に対してどのようにインプットすればいいかということに、神経と時間を割いたという感じかな。

 フランスもアニメーションが完全に落ち込んでいるときだから、アメリカのマーケットでヒットする映画を作るには、ディズニーのやり方を学ぶしかない。だから、ディズニーを学ぼう。ゲイリー・カーツもアメリカにいるわけだから、「よし、アメリカに行こう」ということになったわけ。

 

―― 当時カーツは、『スターウォーズ』のプロデューサーとして、非常に有名なわけですよね。

 

竹内 そう。そのとき彼は、ブラッドベリの『何かが道をやってくる』の実写を撮っていて、みんな、「この人は大物プロデューサーなんだ」と思っていた。だけれども、実態は違ったというだけの話。

 

―― 10月に脚本の邦訳が届いたときは日本だから、夏に渡米しているとして、それほど長くは行っていないということですか。

 

竹内 1か月くらいいました。8月28日に出て、9月20日前後に帰ってきているのではないかな。このときにブラッドベリの第1稿が上がって、行っている間に第2稿も上がった。ゲイリーが、ブラッドベリの脚本を「だめだ」と言わないから、それをどうするべきか。その脚本をどうするか、どこを変更するかという話を延々と繰り返していた。

 

―― 大塚さんの本だと、宮崎さんは最初から、『NEMO/ニモ』には消極的だったことになっていますね。「企画が出た時からはっきりと反対を表明していました」という書き方をされています。

 

竹内 最初から消極的ということはないね。だけれども、『NEMO/ニモ』は10年かかっていて、宮さんが最初に「もうやめた」と言っているから、『NENO/ニモ』というスパンの中で見れば最初の方になる。(宮さんは)『NEMO/ニモ』に反対というよりは、先ほど言ったように、レイ・ブラッドベリのものを見せられて、それをおもしろいとは思っていないわけです。だけれども、ゲイリー・カーツはこれを「おもしろくない」「やめよう」とは言わないで、それで2稿を書かせて、その後も、何となく良いのか悪いのかよく分からないままお茶を濁しているから、みんなイライラが募った。

 もう一つは、たくさんのアメリカのアニメーターたちと会って話をしていった中で、アメリカにはストーリー性の強いアニメーションが、それまではなかった。だから、『カリオストロの城』を見せると、ストーリーや構成力がアメリカにはないもので、「これはおもしろい」というような話が出てきた。アメリカでは、アニメーターが仕事を受け取ったときに、キャラクターをおもしろく膨らませようという発想はあるけれども、作品としての統一性は、まだその当時のディズニーにはほとんどなかった。そこにストーリー性を盛り込もうと考えた人が、ドン・ブルース。その当時、僕たちは、ドン・ブルースとジェリー・リースに会った。両者とも、ストーリー性をもっと重視しよう、今のディズニーとは違うものを作るんだ、あるいは作り出そうということで、動いていた。

 そのようなディズニーの作り方を聞けば聞くほど、「このままじゃだめなんじゃないの」という雰囲気があって。要するに、「第3の道」とよく言っていたけれども、日本の方式でもない、アメリカの方式でもない、おもしろいものを作るために、このようにしたらいいのだという新しいものを作り上げるべきだという話は、もうスタート時から出てきていた。

 そのときに、キャラクター・アニメーションとは何かという問題も引っ掛かってきて。『カリオストロの城』を見せたときに、アメリカ人は、キャラクター・アニメーションだとは、受けいれなかった。「これは、アクション・ムービーだ」と。それに対して、『じゃりん子チエ』は、キャラクター・アニメーションだと。

 

―― 『じゃりん子チエ』が、キャラクター・アニメーションになるんですね。それはやはり、キャラクターの方に重きを置いているということですか。

 

竹内 重きを置いているというより、それまでのディズニーは、ストーリーに関係している関係していないではなく、舞台のミュージカルと同じように、キャラクターが出てきたらそこでイチ芸を披露して楽しませるという感じだった。これがエンタテインメント。

 そうなると、『カリオストロの城』は、ストーリー性に富んでいる作品だよね。だけれども、あれはアクション映画だと。「アニメでこんなアクション映画ができるというのは、すばらしい。これは、アメリカにはない」という評価だけれども、同時に、「ここには、アニメーションによる性格の描き分けはない」ということになる。その当時の彼らの評価としてはね。

 それに対して、『じゃりん子チエ』は、テツやチエの性格がアニメーションににじみ出ている。こんな風に、彼らにとっても、アニメーションの新しい領域が見えた。そんな中で、ジョン・ラセターやブラッド・バードなどの若い人は、『カリオストロの城』はおもしろいと言ったわけ。

 

―― 日本側としては、『NEMO/ニモ』はどちらで行こうとしていたんでしょうか。

 

竹内 まず強いストーリーがなければいけないと、日本人は強く思っていた。強いストーリーということは、幾つかのシーンがあったときに、そのシーンがきちんとストーリーに絡んでくるものでなければいけない。けれども、最後に藤岡さんが、ミュージカル的なものにこだわったんですよ。

 

―― ああ、なるほど。

 

竹内 藤岡さんが、「ストーリーって言うけど、それだとおもしろくないんじゃないか、ダンスがあったり歌があったり、アメリカのショーがないといけないのではないか」と。それが、藤岡さんが一番こだわったところだと思う。

 最後に波多(正美)さんたちが入って『NEMO/ニモ』を作り上げるときに、向こうで構成表を壁に張り出した。そこでトータルの長さと、どこのシーンがどのように次のシーンに影響するかという構成をやって、「藤岡さん、こことここは要らないから、切りましょう」と、僕はもう相当強く言った。だけれども、藤岡さんは、「竹内君、君は暴力的だな。そこがないと、楽しくないじゃないか」というようなことを言い出して、説得に応じない。仕方がないから「分かりました。残しましょう。それでゴーサイン出してください」。もう、仕方がない。最後の『NEMO/ニモ』は、妥協の産物です。強いストーリーを芯にして、必要のないところを削り、ストーリーに必要なところを膨らませると言っても、藤岡さんは納得しないんだもの。最後は藤岡さんが悪かった。高畑さんでも、宮さんでもずっと説得できないんだから、無理ですよ。

 宮さんも高畑さんもそうだけれど、きちんと意味のあるものを作りたい、ただ滑って転んで楽しい、という話ではいけないと思っていて、アメリカ人もそのように思っていたわけ。どこに重きを置くかによってストーリーは違うものになるけれど。最初はゲイリー・カーツというプロデューサーが何を考えているのか分からなかった。結局、実は、ほとんど何も考えていなかったことが分かった。次に藤岡さんが考えていることは、アメリカ人よりもアメリカ的で、しかも1950年代や60年代ぐらいの発想で、70年代や80年代の頭ではないということが明らかになった。だから、完全に遅れてしまった。

 

―― 藤岡さんが海外雄飛を考え始めた頃にはぎりぎり通用したかもしれないけれども、時間をかけると、企画が陳腐化していくという水準ですか。それとも、そのときにはもう通用しないものだったのか。

 

竹内 藤岡さん自身がプロデューサーとしての、どの作品をやったらいいかということでは、鋭い目を持っていたと思う。しかし、自分がリードして作る人ではなかった。営業マンであって、クリエイターではないと、僕は思っている。ところが、最後にクリエイターになりたかった。長年『NEMO/ニモ』に関わっていく中で、ストーリーを読んだり、いろいろな人の話を聞いたりしながら、藤岡さんは自分のクリエイターとしての夢を、自分の中で作ってしまった。「宮崎さんに任せる」「高畑さんに任せる」「大塚さんに任せる」で、作ればよかった。それをやらなかったことが、大間違い。
  
(第2回【『NEMO/ニモ』との関わり(2)各パイロットフィルムの制作】に続く)