新潟視覚芸術研究所 × 開志専門職大学

オーラルヒストリー・真木太郎氏(株式会社ジェンコ)第1回

2023年8月17日、株式会社ジェンコ社長・真木太郎氏にオーラルヒストリー調査を行った。同氏は東北新社、パイオニアLDCを経てジェンコを立ち上げ、数多くのアニメーション作品を手掛けてきたプロデューサーである。今回の調査では、普段あまり語られることのない東北新社時代からの経験を時代順にうかがっており、今後アニメーションのプロデュース手法や、映像業界全体の歴史を考える上での貴重な資料になると思われるため、ご本人の許諾を得て、何度かに分け以下の通り公開する運びとなった。

真木 太郎(まき たろう)氏 略歴


1955年5月23日、岐阜県生まれ。1977年に早稲田大学法学部を卒業し、東北新社へ入社。ビデオビジネスの時代が本格的に到来したことで広がった、洋画の買付や映画の製作・配給業務に携わる。さらに『機動警察パトレイバー the Movie』(1989)のプロデュースを行った後、1990年にパイオニアLDCへ移籍。OVAからテレビや劇場用映画にまで展開が広がった『天地無用!』シリーズ(1992~97)をはじめ、『神秘の世界エルハザード』(OVA/TV、1995)や『モルダイバー』(OVA、1993)などを企画した。さらに1997年には、企画・プロデュース専門会社の株式会社ジェンコを設立して独立。引き続きテレビアニメを手掛けたほか、今敏・監督『千年女優』(2002)、『東京ゴッドファーザーズ』(2003)、片渕須直・監督『この世界の片隅に』(2016)など劇場用アニメーション映画のプロデュースも行っている。また、2023年から始まった「新潟国際アニメーション映画祭」のジェネラルプロデューサーでもある。

【1,東北新社入社とビデオの時代】

―― では最初に、大学を出られて東北新社へ入社され、映像業界へ進んだ動機からお聞きできればと思います。

 

真木 動機は特になくて、東北新社の社長と、うちの父が知り合いだったんです。

 

―― 脚本家の宮川一郎さんですね。

 

真木 縁故で入れてもらったということです(笑)。

 

―― 当時の東北新社というと、吹き替えや映画配給が仕事ですか。

 

真木 当時はすごく小さかった。吹き替えと、テレビにおける洋画の配給と、あとはコマーシャルぐらいじゃなかったかな。僕が配属されたのは「VTR」っていって、東洋現像所、今のIMAGICAみたいなポスプロ(ポストプロダクション)の部署。ビデオの編集と、音響処理のスタジオレンタルの営業でした。

 

―― 東北新社に入られるときには、何かお仕事の志望とかはあったんですか?

 

真木 (東北新社には)なんとなく、CMを作ってるっていうイメージがあったから、CMとかやりたかったですけど、僕は学生時代に映像の勉強したわけでもないし、自分で8ミリ映画を作ってたわけでも何でもないです。ただ、ちょっと映画とかが好きっていうだけですよね。なんとなく、「現場」って感じがよさそうだな、くらいの印象で、そんなに詳しいわけじゃない。

 

―― 入社された後に、すぐアニメのお仕事をされたわけではなく、他の色々なことをされていますね。

 

真木 そう。大学卒業後すぐだったから、1977年に(東北新社へ)入って、多分2、3年ぐらいして、いわゆるホームビデオの時代がくるわけですよ。当時はVHSとベータと、レーザーディスクと、VHDっていういわゆるビデオディスクですよね。あの辺が世に出ますよっていうことで、洋画の字幕を入れる仕事が海外から東北新社にドドッてきたんですよ。字幕は今だとオートメーションで入れちゃうんだけど、当時は1枚1枚、入れる。映画の字幕の枚数は、大体1000枚前後あって、それを全部、編集で入れていくんです。僕がいたVTRに、その仕事がドドッときて、もう毎日徹夜で、自分でやってた(笑)。

 

―― 字幕の翻訳自体は、誰かがやったものだったんでしょうか?

 

真木 翻訳自体は、映画の公開時の字幕がきてましたね。でも、字幕って昔は縦書きじゃない? それを横書きにして、行数とか文字数を少しいじったり、多少は辞書をひいて、「これは違うんじゃないか」とかやったり。それで、黒地の紙に白で文字を入れて、ハイコントラストフィルムで(撮影すると)抜けるわけですよ。そのテロップを発注して、それが1000枚前後来る。当時は当然、テロップを1個1個、写植で作ってたんだけど、パソコンがない時代だから、文字の打ち間違いがいっぱいある。それは全部、写植屋に直しを出したりしてました。それで、本当に土日もなく朝まで、そういう作業をひたすらやってました。

 そのうちに部下も、できはじめたんですね。それに、東北新社も自分たちでその洋画の権利を買って字幕をつけて、VHSとかベータで販売するビジネスをやり出すわけですよ。その仕事にVTR部とか、メディア開発事業部とかっていうネーミングがつく。その前にも多少は同じことをやっていたと思うけど、それでカンヌ(国際)映画祭とかに洋画の買い付けに行くようになるんですね。

 

―― 要するに、ビデオでどんどん売っていける市場ができたので、もう自分たちでやってしまおうということですね。

 

真木 そうそう、ビデオビジネスの時代に入ってくるわけですよ。そうすると、字幕をつける作業は、一種の下請けプロダクションの仕事もありつつ、自社で買ってきた映画のもあるということですね。ビデオが出始めた最初の頃は、まだレンタルビデオがなくて、ビデオといえばセル。ナショナルショップとか東芝ショップとか、家電屋さんが全部、メーカーごとに分かれてた時代って分かります?

 

―― はい、分かります。街の電気屋さんですよね。

 

真木 そういう街の電気屋に、東芝とかソニーのショップがあったりして、要するにVHSとかベータも、デッキとともに映画を売ってたんです。

 

―― なるほど。ハードとソフトを一緒に売ってるってことですね。

 

真木 そうそう。だから、一種のソフトの流通だよね。そのうちにレンタルショップっていうのができ始めて、多分マックスで2万店ぐらいあったんじゃないですかね。お店によるけど、出店すると1万本とか2万本は仕入れるわけじゃないですか。だから、レンタルショップの出店ラッシュで、出せば必ず売れるぐらいの時代があったんです。それで、無名のB級、C級のアクション映画とかホラー映画を、適当に安く(パッケージメーカー側が)買って見て、テキトーな題名をつけてパッケージ作って、字幕はちゃんとしたのをつけてたけど、面白おかしく販売する。そうすると、ビデオショップができてる過程だから、結構売れるわけですよ。儲かったけど、ものすごい忙しかったんです。月に30本とか50本ぐらい発売してたんじゃないかな。

 

―― そういったビデオビジネスで、東北新社が大きくなっていくわけですか?

 

真木 いや、それではそんなに大きくならなかったですね。東北新社が大きくなっていったのは、やっぱりCMじゃないですか。要するにバブルに差しかかると、コマーシャルも昔に作ったやつを何年も使ってるんじゃなくて、どんどん新しく作るでしょ。そうすると、本数が増えていくじゃないですか。海外ロケとかもするようになって、製作費も増えていく。それで、伸びていったんじゃないかな。

 だって当時のコカ・コーラのCMなんか、全部、海外ロケじゃない? 今は合成もできちゃうから、海外ロケのCMなんてない。そういう時代だったから、東北新社はコマーシャルで伸びたんだと思いますよ。僕のやってたビジネスの売り上げは、たかだか100億円もいかなかったからね。やっぱり、そんなに大きくない。
 洋画を買い付けてきて、ストレートにビデオで出す。ビデオを売るために、ちょっとした「なんちゃって配給」もしますよ。未公開作品より、(劇場)公開作品として売ったほうが一種の箔が付いて、お店も仕入れやすいし、レンタルビデオ借りに来たお客も借りやすいってなるから。そういうことを、バンバンやってた。

 

(第2回【『機動警察パトレイバー the Movie』のプロデュース】に続く)