

開志専門職大学
最初に、アフリカのケニアで山脇さんが取り組んでいるお仕事について教えてください。
山脇遼介
ケニアで二つの会社を起こしました。

山脇遼介
まず、現地の中小企業に融資を行う企業の経営。この会社の名前はクレジットとクリエーションをくっつけて、クレディエーションと言います。

山脇遼介
もう一つはケップルという社名で、事業内容は現地のスタートアップ(新しい事業に携わるハイテク企業)に投資を行うファンドの経営です。


開志専門職大学
お仕事の醍醐味とは?
山脇遼介
まず、中小企業への融資の事業に関しては、アフリカの現地社会での明確なニーズに応えていると実感できる点ですね。


開志専門職大学
どういうことでしょうか。
山脇遼介
アフリカでは「お金が借りたいけれど借りられない」ことが大きな問題になっています。

山脇遼介
そこで貸す仕組みを工夫することで、これまで借りられなかった人が借りることができるようになり、それによって彼らのビジネスが成長するのを目の当たりにすることができています。


開志専門職大学
手応えを感じているわけですね。
山脇遼介
そして、二つ目の事業を通じて、社会生活全般を革新するようなサービスを生み出すことに貢献できています。


開志専門職大学
具体的には?
山脇遼介
アフリカでは救急車のシステムが上手く機能していないため、到着までに平均1時間を要します。その間に容体を悪化させて患者が亡くなるケースが多発しています。

山脇遼介
そこで「救急車のUber」のようなサービスを行う私たちの投資先が、最短距離で救急車を派遣する事業を行い、多くの命を救っているんです。

山脇遼介
また、「チャットを使った診察・診療」という事業に取り組んでいる投資先は、優秀な医師にアプリに登録してもらい、ユーザーが簡単にチャットやビデオコールで診療が受けられるシステムを提供しています。

山脇遼介
これにより、通常、病院で何時間も待たされた挙句に、数分しか受けられなかった診療を、いつでもどこでも受けられるようになったのです。


開志専門職大学
素晴らしいですね。実際に社会を変革していますね。いつから、ケニアでビジネスを手がけているのですか。
山脇遼介
2018年の8月からです。


開志専門職大学
そんな短期間で成果を出しているんですね。まさにやり手ですね。

開志専門職大学
ところでケニアとはどんなところですか?行ったことがない人にもわかるように教えてください。
山脇遼介
地理的にはアフリカの東側にあります。マサイ族が有名で、自然に恵まれています。

山脇遼介
首都は私がいるナイロビです。国連機関が本部を構える国際的な都市です。

山脇遼介
日本と比べるとケニアの発展度合いはまだ低いですね。インフラも整備されていないし、公共交通機関が存在しません。


開志専門職大学
では自家用車で移動するんですか?
山脇遼介
そうではなくて、個人で小型バスを持っている人が輸送サービスを提供しているんです。1台に10人くらい乗れるハイエースです。

山脇遼介
でも、時刻表もないし、勝手に走り回っているだけなので、外国人には利用しづらいですね。


開志専門職大学
親日的な国ですか?
山脇遼介
ええ、走っている車はほぼトヨタですから。日本のことを「すごい国だ」と思ってくれています。


開志専門職大学
では、そもそもなぜアフリカのケニアで会社を起こそうと思ったんですか?
山脇遼介
大学生の時にボツワナで働いていたことがあるんです。


開志専門職大学
それはまたどういう経緯で?
山脇遼介
東京外国語大学1年の時に読んだ本がきっかけになって、アフリカに興味を持ちました。

山脇遼介
どうしたら行けるだろうと考えていたら、外務省のプログラムでボツワナ共和国というところで日本大使館の立ち上げに携われるということを知り、応募しました。


開志専門職大学
競争率が高いのでは?
山脇遼介
いいえ、1回に50カ国くらいを対象に募集があるんです。

山脇遼介
やはり、パリやスイスのジュネーブなどは非常に競争率が高いのですが、アフリカは3、4倍程度だったと思いますよ。


開志専門職大学
日本政府から費用はすべて提供されるんですか?
山脇遼介
2年の期間中は、外務省の職員という扱いでした。給与も海外手当もつくし、赴任するときも帰任するときも飛行機はビジネスクラスでした。

山脇遼介
二十歳でそういう、いい経験をさせてもらいました。


開志専門職大学
アフリカへの興味のきっかけとなった本はどのような本だったんですか。
山脇遼介
国連の武装解除の担当官が書いた「武装解除」というタイトルの本で、その本で、激しい内戦後のシエラレオネについて知りました。

山脇遼介
どういう風に人が死んでいったか、平和ボケの日本人からしたら大きな衝撃でした。

山脇遼介
シエラレオネでは国防軍が反乱軍に負けて首都が陥落しました。それは日本で言えば霞が関が破壊されたようなものです。


開志専門職大学
なるほど。それでアフリカに行ってみたいという気持ちになったんですね。

開志専門職大学
実際のボツワナはどうでしたか?
山脇遼介
英語が通じなかったことがショックでした。


開志専門職大学
外語大だとやはり英語に自信があったのでは?
山脇遼介
一般的な日本人に比べたらできるという自信はありました。でも、受験英語は大丈夫でも、コミュニケーションを取るとなると問題でした。


開志専門職大学
努力したんですね?
山脇遼介
私はもともと帰国子女ではないので、ひたすら地道に努力を重ねました。

山脇遼介
通勤時に毎日BBCを聞く、週末は英語の小説を読む、帰宅後に毎日単語を覚える、覚える単語を職場で使うという積み重ねでした。


開志専門職大学
では、ボツワナの2年間で相当英語力がついたのですね。
山脇遼介
はい、渡航前に受けたTOEICが790点。正直、全然使い物にならないレベルですね。

山脇遼介
帰国後に受けたところ950点獲得でき、英検1級にも合格しました。


開志専門職大学
ボツワナ時代の印象的なエピソードを教えてください。
山脇遼介
1年経過した2009年3月に、TICAD閣僚会議という大規模な国際会議があり、福田元首相や当時の外務大臣の一行を空港で出迎えて、会場までお送りするというオペレーションに任命されたことがあります。


開志専門職大学
それは重要な任務ですね。
山脇遼介
大きなプレッシャーを感じましたが、なんとか無事にこなすことができて、仕事や英語に関する自信がつきました。


開志専門職大学
その経験を武器に就職活動を勝ち抜いたというわけですね。

開志専門職大学
大卒後の就職先はどちらに?
山脇遼介
三井物産です。就職活動では商社とメーカーとIT関係を回りました。

山脇遼介
ボツワナでの経験からすでに「アフリカでビジネスを起こす」目標を立てていたので、そのためには、アフリカで事業を広げようとしていた三井物産が理想的でした。



開志専門職大学
商社では何を担当されていたんですか。
山脇遼介
商社の中は、扱う商品ごとに事業体が分かれています。農産物とか化学品ですとか。

山脇遼介
僕は金属品、中でもマンガンの担当部署でした。そしてアフリカで事業投資を行う仕事にも携わりました。


開志専門職大学
商社には何年いたんですか。
山脇遼介
4年半くらいです。最初から5年で退職しようと思っていました。


開志専門職大学
「アフリカで事業」が目標だったからですね。
山脇遼介
でも、物産を辞めていきなりアフリカに向かうだけの勇気はまだありませんでした。

山脇遼介
それで、経営と言ったらMBAだろう、ということで、アメリカのカリフォルニア州のカリフォルニア大学バークレーのMBAに留学することにしました。


開志専門職大学
MBAの留学で得られたこととは?
山脇遼介
そうですね。まず自信がついたこと。そして、人脈が広がりましたね。


開志専門職大学
アフリカの中にはたくさんの国がありますが、拠点をケニアにしたのはなぜでしょう。
山脇遼介
市場が大きいこと、英語圏であることという理由が大きいです。

山脇遼介
他に南アフリカ共和国とナイジェリアも候補でしたが、南アフリカは(労働)ビザが難しいということ、またナイジェリアは治安が良くないということで、ケニアに決めました。


開志専門職大学
アフリカの魅力を、山脇さんの言葉で表現してください。
山脇遼介
社会のあらゆる面が未発達なので、これから伸びていくという期待感に溢れている点です。

山脇遼介
エキサイティングですし、たとえて言えば、日本の高度経済成長期をここで経験できているような感じがします。


開志専門職大学
話を山脇さんの子ども時代に戻します。どんな子どもでした?
山脇遼介
東京の品川区で生まれて、中学から台東区です。高校まで陸上をやっていたし、活発な方でしたね。バンドでギターやベースも弾いてました。それは今も続けています。


開志専門職大学
どのような家庭環境でしたか。
山脇遼介
母子家庭で、三人兄弟でした。私は末っ子です。家計はかなり苦しかったです。塾に通うお金もなかったので、大学の受験勉強は独学でした。


開志専門職大学
その頃、将来は何になりたいと思っていたのでしょう。
山脇遼介
弁護士です。島田紳助が出ているテレビ番組の『世界バリバリバリュー』を見て、弁護士は報酬1億円を超えるというのを知り、それに憧れただけなんですが。

山脇遼介
家が貧しかったので、単純にお金持ちに憧れていました。


開志専門職大学
弁護士になるために大学に行こうと。
山脇遼介
東京大学を目指していました。でも、本気で東大を目指している人には敵わなかったと思います。塾に行ってなかったですし。

山脇遼介
それで東大には落ちて、東京外語大に着地しました。


開志専門職大学
ご自身の経験から言える、「大学生のうちにやっておいた方がいい」こととは?
山脇遼介
英語を死ぬ気で勉強した方がいいと思います。日本人で本当に英語を使える人はかなり少ないと個人的には思っています。

山脇遼介
これは外務省でも商社でも例外ではありません。「通じれば良い」と言っている人に限って通じてないし、相手から怪訝な表情で見られているケースを何度も実際に見てきました。


開志専門職大学
海外で苦労してきた山脇さんならではのご意見ですね。
山脇遼介
時間がある大学生のうちにできるだけ労力を割くべきです。


開志専門職大学
そのために効果的な方法はやはり海外に出ることでしょうか。
山脇遼介
そうです。英語を使わざるを得ない環境に身を置くこと。

山脇遼介
「留学はお金がかかる」と思う人もいるかもしれませんが、お金を一円も使わずに習得する方法はいくらでもあります。


開志専門職大学
実際、山脇さんはお給料をもらいながら海外に滞在していたわけですしね。

開志専門職大学
さて、それではお仕事を通じての今後の目標とは何でしょう。
山脇遼介
アフリカ発で、売り上げ1000億円の企業を自分で作ること、そして投資先がそうなること。その二つを同時に実現させたいです。



開志専門職大学
日本は今内向きと言われますが、どう思いますか?
山脇遼介
自分の高校生の頃と比べてどうかと言われてもあまり変化はないように感じます。

山脇遼介
むしろ2000年代生まれの人たちはテックネイティブなので、自分で事業を起こしたり、フリーランスで働いたり、海外でエンジニアとして採用されるなど、様々な可能性があると思います。

山脇遼介
海外留学者数でいうと減少傾向にあるようですが、それは日本の経済力が相対的に落ちていることが原因ではないでしょうか。


開志専門職大学
では、若い起業家志向の人々にメッセージを送るとしたら、何と言いますか?
山脇遼介
とにかくやってみればいい、ということです。

山脇遼介
まだ私自身、成功していないので言える立場ではないかもしれないけれど、とにかくやってみなければ何事もわからないと思います。

山脇遼介
専門家にアドバイスされて、その通りにやっても、実際は違ったということだってあります。だから、実際に物事を回してみないと何も見えてはこないのです。


開志専門職大学
ところで山脇さん自身が尊敬する起業家とは誰でしょう?
山脇遼介
ケニアで有名な日本人起業家の佐藤さんです。78歳くらいの方で、生涯現役とおっしゃっています。

山脇遼介
ナッツの会社をケニアで1980年くらいに起こして、従業員が3000人もいる、大きな企業に育て上げました。実は私、その会社で以前インターンしていたことがあるんですよ。


開志専門職大学
佐藤さんという方も数十年ケニアといらっしゃるんですね。

開志専門職大学
海外生活に向いている人とはどんなタイプだと思いますか。
山脇遼介
自分自身、向いているのかなあ、よくわからないですね。でも、あまり細かいことは気にしないところは向いているのかも。

山脇遼介
あと物欲がないところ。オシャレな服に関心ないし、欲しいと思いません。アフリカにはオシャレなものはないので、僕は現地人と同じ服でも平気です。


開志専門職大学
最後に開志専門職大学で特別講師としてどんなことを教えたいと思っていますか?
山脇遼介
私のような貧乏人でも英語は身につけられるし、自分の行きたい方向に向かうことはできるということを伝えたいです。

山脇遼介
大事なのは行動を積み重ねることかなと感じていて、私の場合はリスクなど何も考えずにボツワナに行ったこと、そこで自分の目で見たもの、感じたことがいまだに人生の進路に深い影響を与えています。

山脇遼介
したがって、「何かやりたい」と思ったら深く考えずにとにかく試してみることが大事なのだということをお伝えしたいと思います。


開志専門職大学
「行動の人」らしい山脇さんならではの講義を期待しています。宜しくお願いします!
特別講師 山脇遼介氏
東京都品川区出身。東京外国語大学ドイツ語学科在学中の3年次と4年次を休学して、在外公館派遣員としてアフリカのボツワナ共和国に赴任。復学後はアフリカ地域研究ゼミに所属し、6年次の夏休みにケニアとルワンダの企業でインターンを務める。2012年に同学を卒業後は三井物産株式会社に入社し、金属資源関連部門の貿易と事業投資に従事。2016年夏に同社を退職し、カリフォルニア大学バークレー校のMBA課程に留学。2018年に修了後はケニアに渡り、現地の中小企業に融資を行う企業とスタートアップに投資を行うファンドを設立。現在、ケニアのナイロビに日本人の妻と一男一女と暮らす。
インタビュー:福田恵子

