

開志専門職大学
そもそも総合商社とは何をする会社ですか?
岡田誠
高校生にはまだなじみがないかもしれませんね。昔は貿易商社などとも呼ばれていました。


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「世界を股にかけてビジネスをする」というイメージです。
岡田誠
簡単に言ってしまうと、ものを持っているけれどどこかに売りたいと思っている売り手と、ものを仕入れたいけれどどこで買ったらいいかわからないという買い手を

岡田誠
地理的、文化的な境界を越えてつなぐというビジネスです。

岡田誠
普通の消費者の感覚だと、欲しいものは店舗やネットで買えばいいのでは、とおっしゃる方も多いかと思います。

岡田誠
しかし、欲しいものが遠くにあって見つけにくかったり、またどこにあるかわかっていても国ごとに規制や規則があって、簡単に持ってこられなかったりします。


開志専門職大学
それを見つけて、持ってきてくれるんですか?
岡田誠
そうなんです。我々が見つけ出して、こういうものがここにありますよとご紹介できます。それが総合商社の機能です。

岡田誠
そのために我々、商社の人間は大勢、海外に出て、現地で情報収集に当たります。


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では、丸紅という会社について教えてください。
岡田誠
丸紅は一般の方には意外と知られていません。

岡田誠
私の趣味はヒルクライムという、坂道を自転車で登る競技なのですが、大会に出るために日本各地に出かけていきます。例えば地方の山奥で、その土地の方に「仕事は何をしているの」と聞かれて「丸紅です」と答えると、「知らない。スーパー?」と聞かれたりします(笑)。

岡田誠
「総合商社です」と説明しても、わかってもらえない(苦笑)。


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スーパーと違って、人々の日常生活の中に「総合商社」はあまり登場しませんしね。
岡田誠
しかしながら、実は、産業界では当社、丸紅は高い評価を頂いている会社だと思っています。

岡田誠
我々の言葉で「川上」と「川下」という言葉があります。川上とは、我々がものを仕入れる側です。川下とはものを売り込む先ですね。

岡田誠
丸紅は川上に非常に強く、産業界の多くの分野では「原料を調達する際には丸紅」というように候補に上がってきます。



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そんな丸紅さんでの岡田さんご自身の実績について聞かせてください。
岡田誠
二十代の最後の頃にニューヨークに赴任しました。その時のミッションは、新しく北米で資本参加をした工場で生産する製品を、アメリカ国内で新たに販売することでした。

岡田誠
東京時代の上司だった課長がバンクーバーに赴任し、私がニューヨークに行って、ゼロから販売ネットワークを立ち上げたことですね。

岡田誠
製品は、紙の材料のパルプです。我々は日本を始めとするアジアでのパルプ販売の実績は豊富だったのですが、北米での販売は初めてのことでした。


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そのミッションを二十代という若さで成功させたんですね。素晴らしいです。
岡田誠
その時に実感したのが、日本人とは文化的・歴史的な背景が異なるアメリカ人にものを売る、またはアメリカ人と一緒にそれをすることの大変さです。

岡田誠
日本人が相手だとある程度考えていることがわかります。しかし、アメリカ人はやっぱり日本人とは着想や発想が違ったりするわけです。


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こちらの想定範囲外だと?
岡田誠
そうですね。こちらがものを買うお客さんの場合は、相手も買ってほしいから話を合わせてくれます。

岡田誠
しかし、こちらが売り込む場合は相手に買っていただかないといけないので大変です。そこで、自分たちでできない部分をアメリカ人のセールスマンを雇うとなると。


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それもまた難しい?
岡田誠
とっても難しかったですね。


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他にご苦労されたエピソードなどお聞かせください。
岡田誠
1991年12月のソ連崩壊を挟んでのことですので、随分昔の話です。

岡田誠
当時、シベリアの真ん中にある工場からパルプを日本に輸入していたのですが、貿易窓口はモスクワ、工場がシベリア、製品はシベリア鉄道で

岡田誠
日本海に面したナホトカの港まで運ばれて、そこからコンテナ船で日本に積み出されていました。


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シベリア、ナホトカ、と広大な風景が頭の中で広がります。
岡田誠
毎月発注する製品の納入が何カ月も遅れていたので、工場と港で状況調査をして製品がちゃんと届くように調整して来いというミッションを受けました。


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納入の遅れの原因は?
岡田誠
モスクワからシベリア、ナホトカとロシアを横断するルートで91年の夏に訪問した際に、窓口のモスクワと工場、港の間のコミュニケーションが滞っていることと、

岡田誠
工場で作成されていた書類の不備が原因で、荷物の滞留が起こっていることが分かりました。

岡田誠
改善を要請したものの円滑にとは言い難く、再度出張、正常な状態まで持っていくのに2年かかりました。


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そのお仕事がソ連崩壊の前後だったんですね。
岡田誠
1回目の出張はソ連時代だったので、外国人の国内移動は厳しく監視されていました。

岡田誠
飛行機での移動は特別の許可が必要で、空港では巨大な待合室に一人通され、全員が搭乗した段階で呼び出されて最後に乗り込むと

岡田誠
すぐに離陸、到着したら係官が機内まで迎えに来て最初に降ろされるという、窮屈ではあるものの特別扱いを受けました。


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崩壊後には?
岡田誠
そんな扱いは全くなくなり、座席指定もないので滑走路を競争で走っていって飛行機に乗り込むというような状況に変わっていました。


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商社マンとは世界を股にかけ、情勢の変化を肌で感じるお仕事なのですね。


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ところで、なぜ商社に就職しようと思ったんですか?
岡田誠
まず私には海外への憧れがありました。

岡田誠
そこで、自分のタイプとして単身で海外に渡って道を切り開くよりも、会社に属して、その会社の仕事で海外に出る方がいいと考えたのです。

岡田誠
その頃は海外に行くためには、商社が一番わかりやすい就職先でした。

岡田誠
私が中学・高校の頃に就職を意識し始めた当時(1970年年代後半)は、まだメーカーさんも海外に進出し始めた頃でした。

岡田誠
ですから、海外で働くというと、商社というイメージでした。


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海外で働きたいと思うようになったきっかけとは?
岡田誠
話は小学校時代に遡ります。公務員だった私の父は、広島県庁で土木関係の仕事をしていました。

岡田誠
ですから、高校を卒業するまでは、県内のいろいろな土木事務所に父が転勤するたびに引っ越していました。

岡田誠
土木事務所なので場所は山奥です。ですから、家にボットン便所(汲み取り式のトイレ)や五右衛門風呂なんてあったりして。

岡田誠
なんとか水道は通っていましたが。あと、電気も通ってました(笑)。


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山奥にいて、どのような海外の接点が?
岡田誠
家の外をタヌキが走り回っているような山奥にある我が家で、日曜の朝になるとテレビの前に集まって家族で見るテレビ番組がありました。

岡田誠
今の若い方はご存じないと思いますが、『兼高かおる世界の旅』という紀行番組です。

岡田誠
番組の中で見たアメリカやイタリアの様子が非常に印象に残っています。すごいなあ、行ってみたいなあ、と憧れました。明るくてポジティブなイメージでしたね。


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そこから海外に目を向け始めるわけですね。
岡田誠
はい、両親も海外には目を向けていたんでしょうね。山奥にある家なのに、時々お肉の日という日があって、その日の夕食は家族でナイフとフォークを使って食べていました。

岡田誠
畳の上の低いテーブルにあぐらをかいて座ってましたけど(笑)。

岡田誠
また、学校ではESSに所属して英語を頑張りました。岩国の米軍基地の英語放送(FEN)も聞いていました。

岡田誠
洋楽が好きだったので、ラジオをつけっぱなしにして耳をならしました。英語は海外での重要なツールですから。


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学業も優秀だったでしょうね。
岡田誠
高校時代は自転車と剣道、ESSに熱中していました。あまり勉強はできませんでした。


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でも、大学に現役で合格されています。
岡田誠
高校の頃に将来の仕事は商社と定めていたので、東京方面の国立大学の商学部がいいと思いました。

岡田誠
そうしたら横浜国立大か埼玉大学か一橋くらいしかなかったんです。

岡田誠
合格したのは本当にたまたまです。高校の先生にも「絶対にやめておけ。その成績で受かるはずがない」と忠告されたほどです。


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猛勉強されたのでしょうか。
岡田誠
高3の夏休みに数学の問題集を朝から夜まで解いていました。それでも20日間くらいのものです。


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大学時代は何に熱中していましたか?
岡田誠
剣道と、あと自転車からオートバイに乗り換えました。

岡田誠
それから大学3年の時に、友達と3人でアメリカ横断の旅に出ました。

岡田誠
サンフランシスコから33日間かけてグレイハウンドバスでニューヨークまで移動して、アメリカ中を見て回りました。自分の英語も通じたし、自信がつきましたね。


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初めてのアメリカは怖くなかったですか?
岡田誠
確かに、ここで判断を間違ったら怖いだろうなと思う経験はありました。でも怖くはなかったです。

岡田誠
旅行中はトラブルを事前に避けることには気を使いました。

岡田誠
高校の時は県内100キロほどの距離を自転車で、大学になってからはオートバイで数百キロの範囲をよく旅行していて、

岡田誠
自転車やオートバイが故障しても簡単なものだったら自分で修理もできるし、道を走っていて、これは危ないな、ここは気をつけなきゃな、と常に気を配る習慣も身についていたと思います。

岡田誠
危険を回避すること、ちょっとしたトラブルには自分で対処できること、という自信が備わっていたんですね。

岡田誠
ニューヨークでも、どんな田舎町の中でも、危険なところはあります。その中で、この先は曲がっちゃいけない、とわかることは重要ですよね。

岡田誠
そのためには常に注意すること。ぼーっと歩いていてはいけません。周囲に目を配りながら行動することが基本です。


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経験に基づく勘でしょうか?
岡田誠
これから海外に出る人にアドバイスしたいのは、闇雲に「危ない、怖い、不安だ、だから行きたくない」と思わないでほしいということです。

岡田誠
何が不安な状況なのかを調べて、それをどうやったら乗り越えられるのか、避けることができるのか、という視点で考えてほしいですね。



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次に海外に出たのはお仕事で?
岡田誠
はい、1986年に丸紅に入りまして、ニューヨークにある米国本社にトレイニーとして派遣されました。

岡田誠
トレイニーとは、実務研修生のことです。口の悪い人には「ドレイニー(奴隷)だ」なんて言われました(笑)。下働きのようになんでもやらせてもらいました。


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アメリカで働いて、ぶつかった最初の壁は何でしたか?
岡田誠
それがなかったんです。失敗は数え切れないほどしました。でも、それはいわばトラブルで、乗り越えられない壁だと思ったことはありません。


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何でも受け止め方次第ですね。
岡田誠
一瞬のミスで数百万円の損失を出したこともあります。

岡田誠
上司からは怒られたし、自分も猛省しましたし、大変な経験でした。暗くなってどこまでも落ち込もうと思えば落ち込めるような状況でした。

岡田誠
でも、次回からそうならないようにしようと。


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ポジティブですね!
岡田誠
会社のスローガンが、私の仕事の上での目指すところを実に上手に表現しています。

岡田誠
「社会、顧客が持つ課題へのソリューションの提供」と言うものです。言い当てているな、と思います。

岡田誠
社会や顧客が求めるソリューションを考えていきます。それは独りよがりではいけません。

岡田誠
社会・顧客が抱えて困っている課題や問題点をよく理解し、それを解決する解決策を提案すること、それが仕事の本質ではないかと思っています。


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ところでアメリカ人と働いてみて、どうでしたか?

開志専門職大学
先ほどは「違うバックグラウンドの人と働くのは大変だった」と言っていました。どういうところが違いますか?
岡田誠
良い点はダイナミズム、決断と行動が早いこと、これに尽きます。

岡田誠
一方、日本人の強みとしては、繊細、緻密に取り組むということです。裏を返せば、どうしてもスローになってしまいます。

岡田誠
そして、日本人はコツコツ積み上げて物事を成し遂げようとするので、発想が飛躍しないというか、発想の転換が難しいという点は弱点かもしれません。


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枠から出ない?
岡田誠
アメリカ人は大胆だし、失敗を恐れない。そこは凄いな、と思います。


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どうして、そのような違いがあるのでしょうか?
岡田誠
日本は未だに終身雇用制の影響があって、一度入社するとずっと同じ会社に勤める人が多いですね。転職があまり一般的ではなく、就職市場が活性化していません。

岡田誠
失敗を犯してその会社に居づらくなってしまったら困ります。

岡田誠
しかし、アメリカ人は転職という行動に出ます。だからこそ、アメリカでは失敗を恐れないというか、勝負に出ることが可能になるのではないかと思います。



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さて、大学生が4年間のうちにやっておくべきことについてアドバイスをお願いします。
岡田誠
海外に興味があるなら、英語を磨くことは大切です。英語は上手いに越したことはありませんが、単にツールのひとつですから、ネイティブと同じようにしゃべれる必要はないと思います。

岡田誠
でも、できれば自分なりによく使いこなせるレベルにしておいたほうが、ツールとしても役に立ちます。

岡田誠
もうひとつ。大学の4年間は物事を体系的に身につけるための時間が持てる最後の時期です。

岡田誠
あとで、「勉強しておけばよかった」と後悔する大人は少なくないです。どのおじさん、おばさんに聞いてもそう言うと思いますよ(笑)。

岡田誠
社会に出ると、仕事が猛烈に忙しくなるということもありますが、時間をかけて何か新しいことを体系的に学ぶことが難しくなります。

岡田誠
だから、大学時代は最後のチャンスなんですね。

岡田誠
もちろん社会人になっても勉強はしますよ。しかし、それはその時々に必要な情報収集であって、体系的に学ぶ、ということとは違うのです。


開志専門職大学
最後のチャンスですか。
岡田誠
それから、人との付き合い方についても習得しておくといいですね。お酒の飲み方ですとか。若干の失敗も含めて経験しておくといいと思いますよ。


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今の日本の若者は内向きと言われますが、岡田さんのご意見は?
岡田誠
内向きが悪いとは思いません。でも、一度外に出て、自分で経験して判断してから、内向きになるのか外向きになるのか決めてください、と言いたいですね。

岡田誠
やはり自分が普段いる場所から出てみて、外から客観的に眺めてみないと、状況は見えてきません。

岡田誠
フィジカリー(物理的)に外に出ずに、インターネットだけで調べて、なんとなくわかったような気になっているのではないでしょうか。


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バーチャルな世界だけでわかった気に?
岡田誠
例えば、アメリカをネットで調べて、雄大な自然と、活力のある都会がいいところなんだね、だけど危なそうだよね、どうしてあんな危ないところに行くのだろう? と言ったり、

岡田誠
ヨーロッパもネットで見て、歴史があって面白そうだね、でも治安が悪そうだよね、行ってもしょうがないよねと言ったり。そういうふうに実際に体験しないで判断してしまうのはもったいないことです。

岡田誠
自分の目で見て、それから判断してほしいですね。


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開志専門職大学で特別講師を務められる岡田さんが、大学生に講義の中で伝えたいことは?
岡田誠
総合商社の話ももちろんしますが、それよりも、自分を取り巻く環境を飛び出すことの重要さ、飛び出してゆくためには、

岡田誠
いろんなハードルがあるかもしれないけれど、それをどのように乗り越えていくか、というお話をしたいと思います。


開志専門職大学
人生のサバイバル術でしょうか。
岡田誠
私自身、広島県内で何度も引っ越して、大学で東京に出て、また商社に入って3度のニューヨーク赴任、今回のロサンゼルスと常に異なる環境の中に身を置き、得がたい経験を積んできました。

岡田誠
そのような環境の変化に負けない、というか、環境の変化を負担に感じないためにはどうしたらいいのか、どういう気づきが必要なのか、そのためにどのような学生生活を過ごせばいいかについて語りたいです。


開志専門職大学
楽しみです。宜しくお願い致します。
特別講師 岡田誠氏
1963年広島県出身。一橋大学商学部を卒業し丸紅に入社。入社した1986年、研修生としてニューヨークに2年間赴任。その後2度のニューヨーク駐在を経て、2017年4月よりロサンゼルスに赴任。現職は丸紅アメリカ・コーポレーションのバイスプレジデント(副社長)。趣味は自転車競技のヒルクライム。ロサンゼルス郊外マリナデルレイ在住。
インタビュー:福田恵子
撮影:鈴木香織
動画:ジーン渋谷

