特別講師一覧

人と空の安全を確保する仕事に誇り。コロナ禍には、感染の危険を乗り越え、空港でのPCR検査を完遂。 ジェイ・エス・エス 航空保安事業本部 副本部長 中島喜一 氏

1988年、危機やリスクに関する世界の情報を集める日本最初のコントロールリスク会社として設立された「ジェイ・エス・エス」。そこで働く中島さんは、日本航空(以下JAL)を定年退職後、航空保安事業本部 副本部長として空港と航空機を利用する人々に、安心と安全を提供する業務を担当しています。そんな中島さんに、仕事の醍醐味と学生時代に一生懸命取り組んだことなどについてお話をお伺いしました。
ハイジャックや航空機爆破などの不法な行為を未然に防止する、重要な保安検査業務がメインの仕事。

開志専門職大学

現在のお仕事について教えてください。

中島喜一

私は、JALの関連会社の一つであるジェイ・エス・エス (Japan Security Support)に勤務しています。航空保安事業本部に所属し、空港と航空機を利用する方々に安心と安全をご提供することを目的とした、空港から出発する際の保安検査、および空港施設の警備の二つの業務を担っています。私の責務は、あらゆる方面からの航空機と空港内の安全管理です。

開志専門職大学

中島さんは、業務に関するプランニングをされているのですか?

中島喜一

副本部長として業務計画を含め、売り上げや人事が順調に進んでいるかを全体的に見ています。

開志専門職大学

空港でお客様に接することもあるのですか?

中島喜一

実際に保安検査の現場にいるわけではありませんが、数カ月おきに空港へ出向き、社員がどういう姿勢、どういう顔つきで仕事に臨んでいるのか、何か悩みはありそうか、みんなうまくいっているのか、そういった社員の表情を直接見るようにしています。

開志専門職大学

従業員の働く環境を見守られているのですね。

中島喜一

仲間である部下たちが、毎日明るく楽しく元気に仕事ができる環境を作り、整えることが私の仕事のミッションの一つです。

開志専門職大学

ところで、保安検査業務について教えてください。

中島喜一

ハイジャックや航空機爆破などの不法な行為を未然に防止するため、お客様や機内持込手荷物、受託手荷物に対して検査をするのが保安検査業務です。羽田・成田・関西空港では国際線を主に担当、新千歳・仙台・福岡・那覇空港では国内線を中心にその業務を展開しています。

開志専門職大学

今の仕事に就こうと思われた理由やきっかけを教えてください。

中島喜一

JALを定年退職し、そのグループ会社の一つのジェイ・エス・エスに転籍しました。定年を迎えると雇用延長を選ぶか、グループ会社に出向・転籍する人が多いですね。私の場合、昔の上司が声をかけてくれて、尊敬するその上司とまた一緒に仕事がしたいという希望もあり、ジェイ・エス・エスを再就職先に選びました。

開志専門職大学

JALのような大手企業で働けば、関連会社などが多くあり、定年後も仕事は続けやすいですね。

中島喜一

確かにそうかもしれません。現在、JALのグループ企業は150社ぐらいあります。昔はもっと多かったのですよ。しかし、JALは2010年に一度経営破綻をし、その後再生しましたが、グループ企業は約半分に減りました。出向であれば60歳以降に雇用延長が選べ、1年ずつ契約更新ができます。私はそれまで在籍していたJALを退職して、別の会社に就職する形の転籍を選び、ジェイ・エス・エスの社員になりました。

世界のエアラインの人たちと仲間になれたJAL時代。今は、人と空の安全を確保する仕事が誇り。

開志専門職大学

お仕事の醍醐味は何ですか。

中島喜一

JAL時代は、営業に関わる人とモノと金を動かすポジションに就き、事業を推進する役割でした。そういう意味では、世界の営業の責任者として非常にダイナミックな仕事ができました。

開志専門職大学

夢のようにかっこいいお仕事ぶりですね。

中島喜一

経営破綻後の部長職だったので、苦労も多かったですよ。でも、さまざまな経験ができて、JALの拠点だけではなく、全世界の仕事先に毎月のように出向き、担当者と話をすることもありました。社内だけではなく、私と似たようなポジションに就いている世界のエアラインの人たちと出会い、そして仲間になれたのが、この仕事の醍醐味でした。

開志専門職大学

では、仕事を通しての思い出、苦労、喜びなどを教えてください。

中島喜一

ジェイ・エス・エスに入社したのは、コロナ禍で航空需要が激減している真っただ中でした。そんな厳しい時期に、収支改善のために羽田空港での新規事業として空港検疫の補助業務を受託。国際線で到着される旅客のPCR検査を実施するための動線案内・整理が主な業務でしたが、当初、空港現場で働く幹部社員を中心に、感染を危惧する意見がありました。

開志専門職大学

確かにコロナ禍では、現場での感染が最大の懸念事項ですね。

中島喜一

社内でのけんけんがくがくの議論の末、「やろう」と決意。この空港検疫業務に2年間取り組みました。生みの苦しみはありましたが、現場社員の努力のおかげでこの業務はうまくいき、収入拡大に貢献。苦労はあったものの、結果的には社員・会社双方にとってプラスに働き、成果を上げました。

開志専門職大学

働くことで得られたものは何ですか?

中島喜一

仕事を通じて多くの人たちと知り合い、社内でもかけがえのない仲間と出会うことができたことです。人のつながりがたくさんできました。また、仕事の性質上、人々の安全を確保することにはミスが許されない厳しさはありますが、人々から必要とされ、役に立ち、そして社会貢献もできました。この仕事に誇りと意義を感じています。

自由を謳歌した大学時代は、社会人へ向かう階段の途上。さまざまなバイトの経験が後に役立った。

開志専門職大学

中島さんはどちらのご出身ですか?どんなお子さんでしたか?

中島喜一

埼玉県のさいたま市浦和区出身です。小さい頃はかなりわんぱくで、お山の大将みたいによくけんかをしました。

開志専門職大学

みんなの先頭に立つリーダータイプだったのですね。

中島喜一

というよりは、いたずらっ子でした。家が商売をやっていたので、いつも玄関が開けっぱなし。そこにランドセルを放り投げて、「いってきます」と遊びに行ってしまい、夕飯まで帰ってこないようなタイプでした。

開志専門職大学

とても自由な感じですね。目に浮かびます。

中島喜一

頭のいい子が通う小学校の生徒たちとよくけんかをしていました。その子の親が怒鳴り込んできて、母が謝っていましたが、私には小言の一つも言いませんでした。

開志専門職大学

大学時代はどのように過ごされましたか?

中島喜一

今、振返ると人生で一番、自由を謳歌した時代だったと思います。バイトもコーヒーショップ、TV局のアーカイブ整理、家庭教師、販売員などを経験。社会人へ向かう階段の途上のような印象です。多くの経験ができて良かったと思います。

開志専門職大学

何に1番チャレンジしましたか?

中島喜一

スポーツが大好きだったので、いろいろなスポーツに挑戦しました。出身地の浦和は、プロサッカークラブの「浦和レッズ」で有名ですが、小学校の頃は、私もサッカー選手になりたいとサッカーをやりました。中高はバスケットボール。そして大学時代はテニスとサーフィンが流行りでやってはみましたが、大学のサークルで山登りとかもしていました。とにかく多種多様なスポーツにチャレンジしました。

大学の4年間では焦らず悩まず、勉強や遊びに悔いが残らないように取り組んでほしい。

開志専門職大学

大学生のうちにやっておいた方がいいことは何ですか?

中島喜一

大学の4年間では、焦らず悩まず勉強や遊びに悔いが残らないように取り組んでほしいと思います。

開志専門職大学

中島さんは入社したい会社を定めて、就職活動をしたのですか?

中島喜一

私の父は自営業で、私に家業を継いでほしかったと思います。でも、父が自分一人でビジネスを切り盛りする大変さを間近で見ていたので、私はずっとサラリーマンになりたいと思っていました。それで自分はどんな仕事をすればいいんだろうと大学時代の4年間、一生懸命考えたのですが、考えても考えても答えは出ませんでした。

開志専門職大学

答えの出ない状況に焦りましたか?

中島喜一

いつか何か見つかるだろうという思いでした。だから学生の皆さんには、将来のことに思い悩まなくてもいいと言いたいのです。なぜなら、時が来れば解決します。ですから、勉強や仲間との遊びを悔いが残らないように、一生懸命やってほしいです。それをやることで将来につながるはずです。

開志専門職大学

悔いが残らないように、勉強と遊びに全力を尽くせば良いのですか?

中島喜一

そうです。大学はたくさんの人が集まってくる場所。そこで、人との付き合いを大切にちゃんとやってほしいと思います。そうすれば、そのことが未来につながるはずです。

アタッシュケースを持って世界を飛び回るサラリーマンを目指し、英語は真剣に勉強。

開志専門職大学

お仕事柄、英語を使ってこられたと思いますが、学生の頃から英語はできたのですか?

中島喜一

英語はしっかり勉強しました。大学後半の2年間はお茶の水にある「アテネ・フランセ」という語学の専門学校に通い、英語を学びました。厳しい学校で、3回遅刻または欠席すると退学になります。宿題も厳しかったのですが、宿題をきちんと提出することで英語力が付きました。

開志専門職大学

そんな厳しい学校に通ってまで、英語を学んだ理由は?

中島喜一

単純ですが、アタッシュケースを持って世界を飛び回るサラリーマンになりたいと思っていました。

開志専門職大学

中島さんは、その夢を実現されましたね。

中島喜一

JAL時代は営業として、いろいろな国に行くことができたので、その夢は叶ったと言えるでしょう。

「転職」という選択肢や考え方を知っておくだけで、就職活動時に神経質にならなくて済む。

開志専門職大学

では、特別講師として、どんなことを教えていただけますか?

中島喜一

学生生活をされている皆さんが、就職や起業など新卒としての就活をこれから迎えようとしている段階で、不思議に思われるかもしれませんが、「転職」をテーマにお話ししようと思います。

開志専門職大学

「就職」ではなく「転職」ということに、興味がそそられます。

中島喜一

大学生の皆さんは、最終学府を終え新卒として会社に就職することになります。でも、本当にやりたい仕事や入社したい企業に就職できる確率は、実はそうそう高くないのが現実です。

開志専門職大学

確かに、第一希望の企業に就職できるのは一部の学生だけですね。

中島喜一

少し前までは世間的に、「学校を卒業したら就職して、お金を稼いで家庭を持つべき」という考え方が多数を占めていました。しかし、ライフスタイルの多様化によってさまざまな働き方が確立されている現代では、その常識が少しずつ崩れ始めてきています。

開志専門職大学

昔と比べて、今では「転職」する人が増えている気がします。

中島喜一

転職という選択肢や考え方もあるということを知っておくと、将来、就職や起業をした時に、「ちょっとこれは違うな」と感じても、あまり神経質にならなくて済みます。学生の皆さんには、いろんなオプションがあるということを頭に入れておいてもらえればと思います。

開志専門職大学

中島さんは転職のご経験があるのですか?

中島喜一

1度あります。大学卒業後、京セラに入社しました。家族の事情や年齢的なこと、自分の挑戦意欲などが理由で、5年間京セラに勤めた後に、JALに転職をしました。講義では転職の経験者として、転職のメリット・デメリット、転職の準備、転職と天職についてなどを含め、お話ししたいと思います。

開志専門職大学

講義、とても楽しみです。ありがとうございました。

特別講師 中島 喜一 氏
埼玉県出身。早稲田大学社会科学部卒業後、京セラ(株)に入社し、海外営業部門に所属する。1992年より日本航空(株)(以下JAL)に転職し、顧客販売センター長、旅客営業本部部長、北海道地区支配人を歴任し、2018年、ロサンゼルス支店長として渡米する。2020年より、JALの関連会社の一つである(株)ジェイ・エス・エスに転籍。航空保安事業本部 副本部長として、空港と航空機を利用する方々に安心と安全を提供している。

タップして進む タップして進む