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映画づくりを夢見て単身渡米。携わった作品がアカデミー賞受賞作品に。 横山智佐子氏

世界のエンターテインメント産業の中心地、ハリウッド。少女の頃、三重県津市の映画館にかかるハリウッド映画を楽しみにしていた横山智佐子さんは、映画好きが高じて単身渡米し、アカデミー賞受賞作品のスタッフとして名を連ねるまでになりました。「夢だった仕事ができて幸せ。毎日その幸せを実感している」と語る映画編集者の横山さんに、足がかりをどのようにつかみ、そして30年もの間、競争が激しい業界でいかに生き残ってきたのかを伺いました。
名匠リドリー・スコット作品に参加。 売れる映画の鍵握る編集という仕事。

開志専門職大学

ハリウッド映画の編集者(フィルム・エディター)の横山さんですが、どのような作品に関わってきたのですか?

横山智佐子

一番長く一緒に働いたのは、リドリー・スコット監督です。80歳を超えた今もバリバリの現役。

横山智佐子

彼の『グラディエーター』『ハンニバル』『ブラックホーク・ダウン』といった作品に、編集チームの一員として携わりました。

開志専門職大学

リドリー・スコット監督と言えば超一流監督ですね。

横山智佐子

スコット監督は、一時期、1年に1作品撮っていましたね。

横山智佐子

私のボスのピエトロ・スカリアさんという名編集者がスコット監督の作品に携わっていて、私は編集チームのファーストアシスタントエディターとして働いていました。

開志専門職大学

映画の編集とは具体的にどのようなお仕事なのですか?

横山智佐子

映画の撮影と同時にその撮影場所に入って、日々上がってくるフッテージ(撮影済みの生の素材)を切って繋いで作品に仕上げる仕事です。

横山智佐子

撮影終了後はスタジオで8カ月くらい篭って作業を行います。撮影期間よりも編集期間の方がずっと長いのです。

横山智佐子

しかも、ハリウッドではオーディエンスプレビューというものがあって、完成前の作品をお客さんに見てもらってアンケートを取るんです。

横山智佐子

その結果によって、さらに編集をし直して、またプレビュー。それで良い点が取れるまで公開しないんですよ。

開志専門職大学

売れる映画になるまで、編集とプレビューが繰り返されるわけですね。

横山智佐子

ハリウッドでは映画が売れるかどうかは監督の腕はもちろんですが、監督につく編集者、プロダクションデザイナー、撮影監督の力によるところが大きいと言われています。

横山智佐子

映画編集者は地位が高い職業です。

アカデミー賞編集者の片腕として15年。 好きな仕事ができてただただ幸せだった。

開志専門職大学

なるほど。ところで、横山さんがこれまでにご自分が手がけた中で印象に残っている作品は?

横山智佐子

『グッド・ウィル・ハンティング』ではいい経験をさせてもらいました。マット・デイモンとベン・アフレックがアカデミー賞の脚本賞を受賞した作品です。

横山智佐子

あの映画の最初のプレビューをニューヨークで開催した時に、隣に座っていたスーツ姿の男性が泣いていたんです。その反応を見て手応えを感じました。

開志専門職大学

マット・デイモン! ミーハーな質問で恐縮ですが、俳優さんとやりとりすることもあるのですか?

横山智佐子

はい、マット・デイモンとベン・アフレックはスタジオ内の編集室にやってきましたね。

横山智佐子

別の時はサンドラ・ブロックやジム・キャリーがスタジオ内をぶらぶらしていたり。

開志専門職大学

でも、お仕事の醍醐味はスターに会えることじゃなくて、やはり。。。

横山智佐子

作品を見た方の気持ちを動かせるということですね。先ほどお話したプレビューの時のように、観客のリアクションを目の当たりにすると、やって良かったと心から思えます。

横山智佐子

映画作りってすごい仕事だなって。

開志専門職大学

大変だった作品は何でしょう。

横山智佐子

『ブラックホーク・ダウン』です。撮影に入った時点でまだ脚本が完成していなくて。さらに戦争映画だったのでダイナミックな映像を撮るためにカメラが10台回っていました。

横山智佐子

私たちは、その10台分の映像を編集するのです。

横山智佐子

ボスのピエトロさんと一緒に切ってつなげて、の繰り返しでした。そして、あの映画はピエトロさんの編集者としての技量のおかげで名作になったと信じています。

開志専門職大学

実際にアカデミー賞の編集賞をピエトロさんが受賞されましたね。

開志専門職大学

そのピエトロさんの下で、横山さんは15年働いていたとか。

横山智佐子

そうです。でも、日本とアメリカはシステムが違って、一度、アシスタントとして仕事を始めると、あとは自分で上に這い上がっていくしかありません。

横山智佐子

日本のような年功序列ではないのです。

横山智佐子

彼の下で働き続けても、ファーストアシスタント以上の存在にはなれないとわかっていました。

横山智佐子

だんだん、自分一人で編集をしたいという気持ちが募ってきたので、思い切って『SAYURI』という作品を最後にピエトロさんのチームを去りました。

開志専門職大学

今は何をされているのでしょう。

横山智佐子

ドキュメンタリー映画に携わっています。

横山智佐子

UCLAの人類学の教授が持っている制作プロダクションで、教授が専門にしているバリ島に関する映画の編集を担当しています。すでに5、6本やりました。

開志専門職大学

現在はメインの編集者になったんですね。

横山智佐子

そうです(笑)。

開志専門職大学

話を戻しますが、15年間、ピエトロさんの片腕として働いている間、一度も心が折れたり、日本に帰りたいと思ったりしたことはなかったんでしょうか?

横山智佐子

そういう風には考えなかったですね。好きな仕事ができていたから幸せでしたし。

横山智佐子

でも、売れる作品にしなくてはいけないというプレッシャーは相当なものでした。

横山智佐子

普段は編集者をトップに、チームでワイワイガヤガヤとざっくばらんな雰囲気で仕事をしているんですけど、急に監督やプロデューサーが編集室?に入ってきたら、皆、プレッシャーを感じて緊張して静かになったものです。

過激な競争社会で生き残れた理由とは? コツコツ取り組んだ姿勢が評価された。

開志専門職大学

厳しい環境の中で、どうやって周囲の信頼を獲得したのですか?

横山智佐子

とにかく真面目に仕事しました。日本人だから真面目なんです(笑)。そうでしょう?実に多くの人に「ハードワーカー(働き者)だね」って言われました。

横山智佐子

監督からのクリスマスカードにも「サンキュー・フォー・ユア・ハードワーク」って書いてあったくらい。

開志専門職大学

仕事熱心な姿を見られていた?

横山智佐子

そうかもしれないです。でも、本来、ハリウッドは過激な競争社会で、ライバルの頭の上を踏んでのし上がっていこうとするような人が多いんです。

横山智佐子

自分をできる人だと思わせるために嘘をつこうが御構い無し。

横山智佐子

でも、嘘をついてまでのし上がっていこうとする人は結局エゴが強くて、上の人と衝突した挙句に消えてしまうことが多いです。業界に二度と戻ってきません。

横山智佐子

私はそういうタイプではないので、1歩下がって、コツコツと仕事に取り組んでいて、気づいたら周囲の人の信頼を勝ち得ていたという感じです。

開志専門職大学

そこまで映画の仕事が好きな横山さんですが、元々はなぜ映画に興味を持つようになったんですか?

横山智佐子

洋画好きな両親の影響で、子どもの頃から見ていました。中学生になると一人でも映画館に行くようになっていましたね。

横山智佐子

仲良しのグループに、映画好きな友達がいなかったんです、残念ながら。

開志専門職大学

横山さんはどんな高校生でした?

横山智佐子

あまり女の子っぽくはなかったですね。友人もすごく個性的なタイプが多かったように思います。あと、私は優等生タイプ(笑)でした。やっぱり真面目でした。

開志専門職大学

多感な時期に、もっとも影響を受けた映画は?

横山智佐子

スティーブン・スピルバーグ監督の『未知との遭遇』です。

横山智佐子

それまでのサイエンスフィクションの映画って、宇宙が舞台だったりと、私たち普通の人間とは関係ない世界を描いていましたよね。

横山智佐子

でも『未知との遭遇』で初めて、UFOと人間の、まさに遭遇が描かれたのを見て、大きな衝撃を受けました。

開志専門職大学

同じスピルバーグ作品でも『ジョーズ』ではなくて『未知との遭遇』?

横山智佐子

ええ、当時は『未知との遭遇』の方がショッキングでした。でも今、プロになって見返すと逆に『ジョーズ』の作品としての凄さがよくわかります。

映画で英語のセリフに耳を慣らした。 ホームステイで知った映画学科の存在。

開志専門職大学

映画を見るうちにアメリカに関心が出てきたのでしょうか。

横山智佐子

はい、映画を通じて英語に興味を持つようになりました。家庭教師から習ったり、英語教材で勉強したりもしました。

横山智佐子

でも一番、英語の勉強で役立ったのは映画館で映画を見たことです。私の出身地は三重県津市という町で、洋画の映画館が2館ありました。

横山智佐子

映画のセリフを聞くことで、耳が英語に慣れたのだと思います。

横山智佐子

短大時代、カリフォルニアに1カ月間ホームステイした時も、ホストファミリーに言われた言葉はほとんど聞き取れました。まだまだ自分から話すことは難しかったですが。

開志専門職大学

ホームステイしてみて、やっぱりアメリカだと確信を得ましたか?

横山智佐子

はい、こちらの大学には映画学科がたくさんあることを知ったことが収穫でした。小さな大学にもあったんですよ。

横山智佐子

当時(今から30年以上前)の日本にはほとんどありませんでした。

横山智佐子

日本には、日大の芸術学部しかなかったかもしれないですね。でも、名古屋にいた私からすると東京は遠い場所でした。

横山智佐子

東京に行くくらいなら、いっそのことアメリカの大学に留学しようと思い、実行しました。

横山智佐子

今の日本には、大学や専門学校にビジュアルアート系の学科が増えましたね。今の学生さんたちは恵まれていると思います。

開志専門職大学

留学は、短大卒業後に行動を起こしたのですか?

横山智佐子

いいえ、3年間、日本で働いてお金を貯めました。

横山智佐子

短大の学費を出してくれた親に、これ以上負担させるわけにはいかなかったので、自分で留学費用を稼がなくては、と思ったのです。渡米は1987年でしたから23歳の時です。

自由で開放的なアメリカを満喫。 学生映画のボランティア活動開始!

開志専門職大学

渡米当初、日本との違いにショックを受けたことなどはなかったですか?

横山智佐子

なかったですね。それより、日本のように「皆、一緒でないといけない」「人前ではこうでないといけない」といった窮屈な枠から解放されたように感じて、

横山智佐子

自由なアメリカを満喫しました。とても居心地がよかったです。

開志専門職大学

カルチャーギャップもなく、早速、アメリカで活動開始したのですね。

横山智佐子

最初は短大のサンタモニカ・カレッジに通いながら、休みの間は学生映画のクルーとして、ボランティアで映画制作の経験を積みました。

横山智佐子

ハリウッドには『バラエティ』をはじめとする業界誌があります。学生映画は、そういう雑誌の「映画のクルー求む」といった広告を出すので、それに応募していました。

開志専門職大学

積極的ですね。

横山智佐子

本来はそういうタイプじゃないんです。でも自分のお金で渡米していたし、そのお金が尽きる前に映画業界への足がかりをつかまなくちゃと、

横山智佐子

ある意味、危機感に突き動かされていました。

横山智佐子

いろんな人に会って、映画制作に携われるチャンスを常に探していました。

横山智佐子

また、学生映画とは言っても、その監督が、ハリウッドの業界関係者の子女であることも多く、現場では業界のプロが手伝いに来ていることもありました。

開志専門職大学

学生映画でも本場の雰囲気を実感できたんですね。

横山智佐子

そう、ここには映画を作りたい人が世界中から集まっていますから。その中に身を置くことができて幸せでしたね。本当にラッキーです。

自費で撮影現場のネパールまで飛び 雇ってほしいと直訴。行動力と熱意が鍵。

開志専門職大学

その後、UC(カリフォルニア大学)サンタバーバラの映画学科を出て、いよいよ本物のハリウッドへ。

横山智佐子

はい、大学を出て1年後に現場を経験したベルナルド・ベルトリッチ監督の『リトル・ブッダ』が、私にとっての最初のハリウッド作品でした。

開志専門職大学

キアヌ・リーブスがブッダを演じた作品ですね。どうやって雇ってもらえたのですか?

横山智佐子

ネパールの撮影現場で先に働いていた友人が、「編集のピエトロ・スカリアさんがアシスタントを探している」と教えてくれたんです。

横山智佐子

それで、すぐに自費で飛びました。ネパールまで。

開志専門職大学

おお、素晴らしい行動力です。

横山智佐子

ピエトロさんに、駄目元で「給料はいらないからアシスタントとして働かせてください」と頼み込んだところ、すんなりとOKが出ました。

横山智佐子

その時から編集の道に入って行くことになったというわけなんです。

開志専門職大学

自費でネパールまで飛んだからこそ今の横山さんがあるんですね。さて、日本の学生に向けてのメッセージをお願いします。

開志専門職大学

まず、大学生のうちにやっておくべきことは何だと思いますか?

横山智佐子

自分がやりたいことを見つけてほしいですね。いろんなことに挑戦して、自分は何をやりたいのか、何が向いているのかを探す時期だと思います。

横山智佐子

行動あるのみです。自分が行動して何かを始めないことには、待っていても何も起こりませんから。

開志専門職大学

受け身ではいけない、と。自分の好きな映画にこだわって、自分のお金でアメリカに来て、コネクションを作って映画界に入った横山さんだからこそ、言葉に重みがあります。

横山智佐子

それから、私自身が実感したことですが、日本を出て初めて、自分の国のいいところも悪いところも客観的に見えてくるものです。

横山智佐子

日本の中にいると、それはわかりません。これからの日本は、若い世代の方々にかかっています。

横山智佐子

日本をより良く変えていくためにも、一度、海外に出てみることを強くオススメします。

開志専門職大学

特別講師として、大学生にはどのようなお話をされたいですか。

横山智佐子

映画業界の内側での私の経験を余すところなく、学生のみなさんにお伝えします。

横山智佐子

しかし、映画に関わらず、何の仕事であっても熱意を持って取り組むことがいかに大事かをお話ししたいです。

開志専門職大学

最後に、横山さんのこれからの目標とは?

横山智佐子

少しでも多くの作品に携わって、その作品を見た人の気持ちを揺さぶりたいです。そのことに尽きます。

特別講師 横山智佐子氏

1963年三重県出身。名古屋女子大学短期大学部卒業後、渡米資金を貯めて1987年にロサンゼルスへ。サンタモニカ・カレッジを経て1991年、UCサンタバーバラの映画学科を卒業。ベルナルド・ベルトルッチ監督の『リトルブッダ』の編集チームに参加したのを機に以後15年間、アカデミー賞を受賞したエディター、ピエトロ・スカリア氏のアシスタントを務める。現在はドキュメンタリー映画の編集に専念。代表作は『G.I.ジェーン』『グッド・ウィル・ハンティング』『グラディエーター』『ブラックホーク・ダウン』など多数。ロサンゼルス近郊在住。

インタビュー:福田恵子
撮影:鈴木香織
動画:ジーン渋谷

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